世紀末美術とディーリアスとの関係を考えるうえで欠かすことのできないのが、ゴーギャンの油絵 《ネヴァモア》 (1897 →これ)である。
1898年秋、はるばるタヒチからパリに送られてきたゴーギャンの新作に、ディーリアスは一目惚れしてしまう。彼は伯父の遺産から500フランを捻出して、この憂鬱な表情をした南国の女を手中に収めたのだ。
これを伝え聞いたゴーギャン自身も、「ディーリアスが持ち主になって本当に嬉しい。投機的な目的でなく、気に入って買ってもらえたのだから」とことのほか喜んだ。
ディーリアスはこの絵を宝物のように大切にし、長くグレ=シュール=ロワンの自宅の音楽室に飾っていた。1912年にイェルカ夫人が描いた彼の肖像画でも、背景に 《ネヴァモア》 がさりげなく配されている(→これ)。
ところが第一次大戦後の1923年、彼は経済的事情からやむなくこれを手放すことになってしまう。そこで夫人は自らその忠実な原寸大の模写をつくり、音楽室の同じ場所に掲げたのである(→これ)。
またしても古い拙文の引用で申し訳ないが、ご勘弁いただきたい。
ひとこと註記しておくなら、ここでタヒチのゴーギャンと(当時は)パリ在住のディーリアスとを仲介したのは共通の友人で、画家のパリにおける代理人だったダニエル・ド・モンフレー Daniel de Monfreid だった。数年前、ゴーギャンがタヒチから一時帰国し、パリのヴェルサンジェトリクス街にアトリエを構えていた頃、ディーリアスと親しく付き合った一時期があった。
不思議なことに、世紀末のパリにあってディーリアスには作曲家の友人はごく僅かしかおらず(ラヴェルとフローラン・シュミットくらい)、むしろ頽廃的な生活に浸っていたボヘミアン画家と肝胆相照らしていたらしい。とりわけノルウェイの
エドヴァルド・ムンク、チェコの
アルフォンス・ムハ(ミュシャ)、そして
ゴーギャンと親交を深めた。ディーリアスとゴーギャンが共に申し合わせたように世紀末の宿痾である梅毒に感染したのはまさにこの放埓なパリ時代だったと考えられる。
あれは1984年だったと思う。日本橋の高島屋百貨店という余りにも不似合いな場所で 《
ネヴァモア》 と初めて対面した。「ロンドン大学
コートールド・コレクション 印象派・後期印象派展」という長い名前の展覧会が開催され、マネの 《
フォリー=ベルジェールのバー》、ルノワールの 《
桟敷席》、スーラの 《
化粧する若い女》 などとともに「初来日」を遂げたのである。これだけの作品をデパートの特設会場に平気で並べてしまうニッポン人の愚鈍さは当時も今も全く変わらない。
ひとたび画面の前に佇むや否や、周囲の喧騒は嘘のように消え失せ、ここが日本橋のデパートの一隅であることは完全に忘れられた。
なんという禍々しく不吉な絵だろうか。悪夢すれすれの魅惑といえばいいのか。直視するのが怖いような、それでいて片時も目が離せない異様な呪縛力に充ちている。すっかり魅入られてしまい、蒼褪めた裸身をひたすら凝視した。
それにしても、と絵の前でつくづく思った。この絵を仕事場に飾って昼夜をおかず四半世紀も眺め続けたディーリアスの神経は尋常ぢゃなかったはずだ、と。
LP時代の昔から今日に至るまで、ディーリアスのアルバム・カヴァーといえば英国の牧歌的な田園風景と相場が決まっている。写真であれ絵画であれ、長閑な田舎の景色さえあしらっておけば事足れりとする安易さが付き纏って離れない。
いやいや本当は違うのだ、そんな綺麗事ぢゃ済まされぬ、ディーリアスこそは幻覚と頽廃と背徳に彩られた欧羅巴世紀末の申し子なのだ、と思ってはみるものの、こちらも半ば諦めていたのであろう。だから1992年この新譜を目にしたときは不意を突かれ心底たじろいだものだ(
→これ)。
ディーリアス:
ヴァイオリン協奏曲*
二つの水彩画(フェンビー編)
春に郭公の初音を聴いて**
川の夏の夜
間奏曲 ~『フェニモアとゲルダ』**
『イルメリン』前奏曲**
舞踊狂詩曲 第二番
舞踊狂詩曲 第一番
ヴァイオリン/タズミン・リトル*
チャールズ・マッケラス卿指揮
ウェールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団
1990年12月**、1991年5月、スウォンジー、ブラングィン・ホール
Argo 433 704-2 (1992)
遂に現れたのかという感慨が沸々と湧いた。 《ネヴァモア》 をディーリアスに寄り添わせたディスクが漸く登場したのである。
よりによって瑞々しい情感に彩られたヴァイオリン協奏曲に何故…という疑念もなくはないし、最後の二曲のダンス・ラプソディを除けば、ここに聴かれる音詩(管弦楽小品)はいずれも楚々と抒情的で、世紀末の禍々しい翳りとは縁がない。ミスマッチといえばそのとおりなのだが、考えてみたらここに収められた楽曲は一曲残らずグレ=シュール=ロワンの音楽室で、《ネヴァモア》のすぐ傍らで作曲されたのだなあ、という思いがやがて違和感を雲散霧消させる。
ディーリアスを自家薬籠中のものとした
タズミン・リトルの独奏はひたむきな献身と確信に満ち、迷いや躊躇が一切ない。かつて来日した彼女が新日本フィルと共演した生演奏からも感じた「ライフワークとしてのディーリアス」の凄みをひしひしと感じる。
マッケラス卿の造形もまことに堂に入ったもので、単なる伴奏の域を超えて内面のドラマをつぶさに現出させようとする。
どの演奏にも名状しがたい微かな齟齬と居心地の悪さがあるのは、マッケラス卿が個性的なやり方で過去のビーチャム卿やバルビローリ卿とは別の境地に至ろうとしている故だろう。愛惜やいつくしみの念とは別の、柄の大きい真摯なディーリアス。