知らなかった。
モーリーン・フォレスターが亡くなっていたそうである。わが新聞各紙は訃報を伝えなかったらしく、今しがたHMVのサイトで読んだ。
数々のマーラーの名唱で名高いカナダのコントラルト歌手、モーリン・フォレスターさんが6月16日、トロントで亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。
たったこれだけだ。不世出のコントラルトで1970年の大阪万博時(モントリオール響ソロイスト)と1978年(トロント響ソロイスト)の二度も来日を果たしているのに、日本の音楽メディアは些か礼を失していないか。仕方無いので英国の
ガーディアン紙のオービチュアリーをざっと訳して引く。
高名なカナダの歌手モーリーン・フォレスターが死去した。亨年七十九。当代屈指のコントラルトとして知られる。ブルーノ・ワルターが1957年カーネギー・ホールで恩師マーラーの「復活」交響曲を指揮したとき独唱者に抜擢され、そのニューヨーク・フィル公演の成功を機に多くの主導的な指揮者たちと共演を重ねた。ワルターらからカスリーン・フェリアの再来と称賛され、マーラーに秀でていたが、オペラやオラトリオにも出演、更にブロードウェイ・ミュージカルの舞台も踏んだ。
フランス語を母語としてモントリオールに生まれ、自らの言によれば、スコットランドとアイルランドの血を引く貧しい中産階級の両親のもとに育った。四人兄弟の末っ子で家計を助けるため十三歳で退学、秘書として働く傍ら、自費で声楽のレッスンに通い、サリー・マーティン、フランク・ロウ、バーナード・ディアマントに師事。1953年モントリオールでコンサート・デビュー、国内と欧州を巡演したのち1956年ニューヨークのタウン・ホールに出演、その直後ワルターに見出された。
当初は演奏会を主としたが、やがてオペラにも進出、舞台でかなりの名声を博した。グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』のオルフェオ(トロント、1961)、リンカン・センターにおけるヘンデルの『ジューリオ・チェーザレ』のコルネリア(ニューヨーク・シティ・オペラ、1966)、『ラインの黄金』のエルダ(メト、1975)、『スペードの女王』の伯爵夫人(スカラ座、1990)のほか、『ヘンゼルとグレーテル』の魔女、ミュージカル『回転木馬』のネティ・ファウラーなども当たり役とした。[…]
国際的名声を手にしてからも故国への忠誠を忘れず、カナダの作曲家の作品を熱心に取り上げ、国内の地方巡業も厭わなかった。ケベック州 Chicoutimi でミュージカルに出演した際のこと、「先方では私がやって来ると思っていなかった。勿論出向いたわよ。あそこの聴衆は素晴らしかったわ、首を長くして待っていてくれたの」。
体格も性格も「押し出し」たっぷりの彼女──永年の伴奏者デイヴィッド・ウォーリック曰く「船艦フォレスター」──はたっぷり肉づきのよい声の持ち主だった。低音を朗々と響かせるばかりか、高音も力に溢れ、繊細さで心ときめかせた。
共演した指揮者アンドルー・デイヴィスは彼女のマーラーを次のように評している。「個性的な音色の美しさ、紡ぎ出す音楽の強靭さ、心を奪う感情の深淵」。「大地の歌」の世界にまさに相応しく、訴えかけるようなその声は世界の悲しみを宿しているかのように響いた。
そのキャリアの最盛期にあってもカナダ議会の名誉議員を務め(1983~88)、諸芸術の振興に力を尽くした。Officer of the National Order of Quebec (2003) など内外の褒賞歴は優に三十を数える。
1957年ヴァイオリン奏者で指揮者のユージン・カッシュと結婚するも1974年に離婚。自叙伝 "Out of Character"(1986)に私事を包み隠さず記している。一男四女の母で、離婚後も友好的関係を保ったカッシュは2004年に歿している。
晩年には認知症とアルコール中毒を患い、全財産を失っていた。「私が死んだらきっと」と生前の彼女は語っていた。「マーラーを数多く、大勢の著名指揮者たちと共演して歌ったという、たったひとつのことで回想されるでしょうネ」。
• Maureen Katherine Stuart Forrester
singer, born 25 July 1930; died 16 June 2010
そんなことないですよ、モーリーン。貴女は決してマーラーだけの歌手ぢゃない!
明日はそのことを証明すべく、追悼演奏会を催さねばならぬ。