「ラ・ベラ(美女)」と名付けられたこの箱には、名も知らぬ神秘的な美少女が閉じ込められている。これは16世紀のイタリア画家パルミジャニーノが描いた《アンテア》と呼ばれる女性肖像画(ナポリ、カポディモンテ美術館)の一部である。
ジョゼフ・コーネルは雑誌で見つけたこの絵の複製に、ひそかに恋してしまったらしい。実生活では独身を通した彼も、こうした絵の中の姫君に対しては、心おきなく憧れの視線を投げかけられたのであろう。
漆喰のような白い絵の具で塗り込められた少女。まるで幾百年もの風雪に耐えてきた聖画像のような趣が漂っている。
遠い異国に心惹かれながらも、コーネルは生まれ故郷のニューヨーク州からほとんど一歩も外へ出たことがなかった。そのかわり、彼の好奇心は貪欲なまでに広く外界に開かれていた。過去の美術作品、19世紀のバレリーナ、異国の鳥たち、天体の運行……。
閉じこもりながら、開かれている。このようなコーネルの精神構造は、箱という名の小宇宙にこそ最も似つかわしいものだった。
1992年、というから今からかれこれ二十年近く前の拙文の一節。朝日新聞の千葉版に載った連載「
川村記念美術館 コレクション20選」の解説から引く。ちょっと気恥かしいので赤色にしてみた。因みにこういう作品(
→このチラシにある)。
自分で云うのもなんだけれど、「
閉じこもりながら、開かれている」という一節は悪くない。ちょうどこの頃コーネルの展覧会を担当し、カタログ編集にも携わり、沢山の箱作品に触れたので、彼の存在がひどく近しく、身に沁みて感じられたのである。
ふと思い立って、佐倉の川村記念美術館まで赴いて展示室の奥まった暗がりにひっそりと佇む美少女に再会してきた。傍らにそっと添えられた
高橋睦郎さんの詩句を胸に深く刻み込みながら…。
肖像画の女性は 見つめる
誰を? とりあえず私を
いいえ 私をつきぬけて 向こうを
そのまっすぐな矢によって
私は消去される
女性は消え失せている
ううむ、うわあ、やっぱり詩人って凄い。全くもって敵わない。
瞼の裏に「
ラ・ベラ」の面影を焼きつけると早々に美術館をあとにし、送迎バスで京成佐倉駅へ。そこから終点の上野まで出て国立西洋美術館へ赴く。明日から始まる「
カポディモンテ美術館展」のオープニング会場に夢遊病者のように迷い込んだ。目的は勿論ただひとつ、
パルミジャニーノの《貴婦人の肖像(
アンテア)》に対面するためだ。
凛とした気品、こちらを見据えるような透徹した眼差し。渋い褐色と濃緑がえもいわれぬ調和を醸し、燻し銀のような光芒を放つ。あまりの美しさに周囲の喧騒が消え、気が遠くなりそうにある。これは途轍もない絵だ(
→これ)。
歴代の学者たちは甲論乙駁の挙句この絵のモデルの素性を突き止められなかったらしい。カタログの解説文から引く。
画中に表わされた女性の正体は、いまだ謎である。17世紀の目録以来、本作はアンテアという名で知られてきた。アンテアとは、ベンヴェヌート・チェッリーニやピエトロ・アレティーノによって記された16世紀ローマの高級娼婦で、ローマに到着したパルミジャニーノも魅了された女性である。ペッレグリーナ・ロッシ、もしくはオッターヴィア・バイアルディとする説もある。どちらもパルマの地位も教養もある家柄の出であった。また、上品な衣装から、彼女を花嫁とする説もある。さらに、特定の誰かというよりも、普遍的な女性美を表わしていると考える者もある。最近の研究によればこのミステリアスな女性は、愛の願望の謎めいた表現だという。それによれば、本作は女性のありのままの肖像というよりも、愛、願望、芸術、あるいはそれら相互の関連を描いたイメージなのである。
これだから学者という連中は始末に負えない。結局のところ何ひとつわからないのである。
高級娼婦かもしれないし、
貴婦人かもしれないし、
花嫁かもしれないし、
誰でもないのかもしれないのだという。ったくもう、役立たずめ!
まあモデルの詮索はこの際どうでも宜しい。そもそもイタリア語では「高級娼婦」も「宮廷女官」も等し並みに cortigiana の名で呼ばれるのだから。
同じ日にコーネルの《無題(ラ・ベラ)》とパルミジャニーノの《アンテア》を続けざまに観るのが密かな夢だった。それが叶う。7月19日までの期間限定の夢。