案の定ひどい雨降りだ、おまけに強い風まで吹いている。今日が東京行きでなくてよかった。両肩に大荷物ではこの空模様ではとても出掛けられなかったろう。
こういう日にこそ、じっくり、しんみり、しみじみと聴くべき音楽がある。
エルガー:
ヴィオラ協奏曲
三つの性格的な小品 作品10
バックス:
ヴィオラと管弦楽のための幻想曲
ヴィオラ/リヴカ・ゴラーニ
ヴァーノン・ハンドリー指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団1988年7月21~23日、ロンドン、トゥーティング、オール・セインツ・チャーチ
Conifer CDCF 171 (1989)
ええっ、エルガーにヴィオラ協奏曲なんてあったっけ、さてはまた未完成の草稿を誰かが仕上げたのか、と勘繰られる向きもおられようがさにあらず。誰もが知る
チェロ協奏曲とまるきり同じ曲なのだ。かの名人ヴィオラ奏者
ライオネル・ターティスがヴィオラ用に編曲したものだ。ターティス自身の証言を引く。
初めて彼のチェロ協奏曲を聴いたとき私はヴィオラに相応しいと直覚したものだ。永年にわたり、私はひとり呟いていた──あの大家の手になる作品があればなあ、と。それが叶わぬなら、次善の策を講ずるまでだ。1929年に私は編曲を手掛け、エドワード卿に恐る恐る手紙を書いて自分のしたことを告げた。貴方の協奏曲を私が弾くのをどうか聴いてほしいという懇願に対し、悦ばしいことに好意的な返事が届き、私はジョージ・リーヴズを同行し、彼がその当時暮らしていたストラットフォード=オン=エイヴォンへと赴いた。ピアノ伴奏による演奏を披露したのである。ヴィオラとチェロは音域がかなり重なるものだから、編曲といっても元のまんまの箇所も多い。ただし低い音になるとヴィオラでは出せないので、やむなくオクターヴ上の音を弾くことになる。筋金入りのエルガー愛好家にして京都で「
カフェ・エルガー」を営んでおられる店主殿がやんわり揶揄していた。
ヴィオラ版の「チェロ協奏曲」にはかなり違和感を覚えます。ヴィオラで弾けない音域が出てくると、いきなりオクターブ上がったりするのは下手なカラオケの歌を聴いてるみたいです。演奏は決して悪くないのでしょうが…。アハハ、「下手なカラオケ」とはなるほど言い得て妙。だが当のターティスは真剣そのものだった。とりわけ第三楽章の編曲で悩みに悩んだらしい。
私はエルガーを驚かそうと秘策を講じた。チェロ協奏曲の緩徐楽章はたったひとつの音を例外として、すべてヴィオラで弾ける音域内にある。すなわち、ヴィオラの音域より低いこの変ロ音を除けば、ヴィオラでもチェロと同じピッチで演奏できるのだ。さて、この変ロ音をどう処理したものか。私はその目的のため楽器のC絃をB♭に調絃し直すことにし、(伴奏者の)リーヴズを秘密の企てに引き込んだ。第二楽章が終わったところで私はエドワード卿に話しかけ、私が僅かに手を加えて変更したパッセージのあれこれを話題にし、その会話の間リーヴズにはしばしピアノで指ならししていてもらった。こうしてエルガーには企みに少しも気づかれぬまま、私はC絃をまんまとB♭に調絃しおおせたのである。計略は目論見どおりに進んだ。問題の変ロ音に差し掛かったときエルガーが浮かべた驚愕の表情を私は忘れることができない。私がその箇所を奏したとき、エルガーは驚きと喜びで椅子から立ち上がらんばかりだった。私は慌ててこう言葉を補わねばならなかった。調絃の変更を避けるため、オクターヴ上の音を奏する別ヴァージョンも用意してあります、と。ところが彼の返答はこうだった。「おゝ、心配ご無用ぢゃよ、お若いの。C絃を低めて奏すべし。こりゃでかしたゾ!(it's grand!)」かくして作曲家自身のお墨付まで貰ったにもかかわらず、結局ターティス自身この編曲の録音を残さなかったことが災いしたのか、やがて存在すらが忘れ去られてしまった。爾来幾星霜、幾多の新作初演で知られるカナダ在住のユダヤ系ヴィオラ奏者
ゴラーニ女史が1888年その世界初録音を成し遂げ、ターティス版編曲はようやく世に知られるに至った。もちろん彼女はターティスの指示どおり第三楽章以降は調絃を変えて低い変ロの音もしっかり奏でている。名指揮者
ヴァーノン・ハンドリーの好サポートも奏功し、これはこれでなかなか聴き応えある味わい深いエルガーである。
とはいうものの、小生の知る限り後続のディスクは絶えてなかったと思う。稀代の名曲であるチェロ協奏曲をわざわざヴィオラで愉しもうという需要は思いのほか(というか当然ながら)少なかったのであろう。ところが、である。
エルガー:
ヴィオラ協奏曲
シュニトケ:
ヴィオラ協奏曲
ヴィオラ/デイヴィッド・エロン・カーペンター
クリストフ・エッシェンバッハ指揮
フィルハーモニア管弦楽団2008年6月30日、7月1日、ロンドン、AIRステュディオズ
Ondine ODE 1153-2 (2009)
きっかり二十年後に二枚目の録音の登場である。
しかも胸のすくような秀演、独奏者は今年まだ二十四歳(ということは録音時は二十一か二)の若者である。ニューヨーク生まれでユーリー・バシュメット、今井信子、ロバート・マン、ピンカス・ズカーマンに師事したとのこと。いやはや非のうちどころのない技量の持ち主であることはこのディスクからもわかる。ただし全体としてくっきり明晰すぎて、エルガーらしさ、というか、匂いたつような憂愁の翳りが希薄なのは伴奏のエッシェンバッハのせいもあるだろう。
フィルアップがアリフレッド・シニートケというのも不思議な取り合わせだ。エルガーの歿年とシニートケの生年が同じという以外に、二曲のヴィオラ協奏曲にはどこにも共通点はないのではないか。カーペンターの独奏はここでも万全、エッシェンバッハの指揮も余程こちらのほうが居心地がよさそうだ。
忘れずに付記するなら、ここで奏されるエルガーはターティス編曲版そのままでなく、更にカーペンター自身が手を加えた改訂版なのだそうで、三楽章での調絃の変更はなく、C絃のまま奏する行き方である由。