(承前)
告白すると小生もまた、
西周や
木村栄のことを小学校の頃から知っていた。前者が「哲学」や「化学」という語を考案したこと、後者が緯度変化に関する数式に「Z項」を加え欧米学界に一矢を報いたことも、本で読んでなんとなく了解していた。
どうしてそうなるのか。別に神童だった訳ぢゃなく、ただ単に早くから切手を集めていたというだけの話。小生の切手との出逢いは幼稚園に通っていた四歳のときに始まる。細々とだが今も続いている。収集歴はすでに五十五年目に入っている。
幼稚園の頃は父の許に届く海外の郵便物に貼られていた切手を貰い受け、帳面に貼り付け愉しんでいた。小学校に入ると
ストックブック(切手収納用のファイル)を手に入れて整理し、近所の郵便局で発売日に行列し記念切手を買うことも覚えた。
小学高学年になると日曜毎に埼玉の田舎から有楽町や原宿の切手商まで足を運び、世界各国の
人物切手を渉猟する面白さを知った。
興味は次第に宇宙飛行士から科学者へと転じ、
コペルニクスや
ガリレオに憧れていた。当時からロシア語の
キリル文字(ЯやИの出てくるやつ)が読めたのは、ソ連の宇宙飛行士を判別するのに必要だったからだ。
1964年に東京オリンピックがあって、田舎の小学校でもクラスメートの間で「俄か切手ブーム」があったのだが、既に切手収集に手を染めて六、七年目だった小生はその狂騒を横目で冷ややかに眺めていた。
日本切手には疾うに興味を失いかけていた。主だったアイテムを集め尽くし、あとは高額で手が届かなかったこともあるが、子供心にも発行の動機がいかにもお役所的(「
国際胸部医学・気管食道科学会議記念」とか「
第15回国際航空運送協会総会記念」とか、一般人にはど~でもいい名目の官製切手が多すぎた)に思えたし、幼い眼にもデザインがいかにも野暮ったく映ったからだ。
そんなすれっからしの小学生にも、憧れの日本切手があった。
その名も「
文化人切手」、1949年から52年にかけて、というから小生がこの世に生を享ける前後に発行された記念切手シリーズである(
→これら)。
計十八種。全ラインナップを掲げよう。
野口英世/福沢諭吉/夏目漱石/坪内逍遙
九代目市川団十郎/新島襄/狩野芳崖/内村鑑三
樋口一葉/森鷗外/正岡子規/菱田春草
西周/梅謙次郎/木村栄/新渡戸稲造
寺田寅彦/岡倉天心
明治以降(ということは確かな肖像写真のある世代)から代表的な文化人を選出する。その人選はたいそう難航したと伝えられる。当然だろう。まだ終戦から間もない占領下で、自信と矜持を失った敗戦国にとって真に誇りとするに足る人物とはいったい誰なのか。そこでは新生ニッポンの姿勢が問われるのである。
ここからは全くの憶測になるのだが、郵政当局が人選の基準としたのはおそらく以下の諸点ではなかろうか。
1) 明治以降の文化人でその業績が遍く認められた人物であること
2) 文芸・科学・教育など諸分野から偏りなく人選すること
3) すでに歿してからかなりの年月が経過していること
4) その思想・信条に極端な偏りがない人物であること
こうした観点からみたとき、上に掲げた十八人は概ねこれらの要件を満たしているように思われる。
分野的にも科学者(野口英世、木村栄、寺田寅彦)、作家(漱石、鷗外、一葉)、画家(狩野芳崖、菱田春草)、演劇人(坪内逍遙、市川団十郎)、教育者(福沢諭吉、新島襄、新渡戸稲造)と各ジャンルから満遍なく選ばれている。一般的な知名度や人気は必ずしも問われないから、西周や梅謙次郎や木村栄が選出されても一向に差し支えはないのである。
ただしここには見逃せない欠陥もある。容易に気づくのは音楽家、洋画家、彫刻家や建築家の不在である。詩歌の分野も正岡子規のみ。いわゆる思想家も(宗教家の内村鑑三や芸術論の岡倉天心を除けば)選に漏れている。
もっとも誰もが思いつく作曲家の
山田耕筰は存命中だったし、
瀧廉太郎はあまりに短命だったから些か役不足だろう。日本画家がふたり選ばれたのに洋画家がいないのは明らかに不公平である。
黒田清輝あたりなら問題なかった筈だ。
明治期の詩人なら
石川啄木、歌人なら
与謝野晶子の名がすぐ思い浮かぶが、前者は社会主義シンパ、後者は「君死にたまふことなかれ」の人だから忌避されたのか。思想家は更にさまざまな点で選出が困難である。ましてや
幸徳秋水や
大杉栄が選ばれる可能性は皆無である。当たり前だ。
「
切手とは大国が子供部屋で差し出す名刺である」と喝破したのは
ヴァルター・ベンヤミンだが、なるほどその伝で行くなら、これは戦後間もない日本国が「これこそが我が国の誇りとする近代文化です」と全国民に向けて差し出した公的な「名刺」なのであった。それを小生は十年ほど遅れて確かに「子供部屋」で受け取った。
いま一度、その文化人切手を仔細に眺めてみよう。
まずは本シリーズの嚆矢として出された
野口英世(
→これ)、
福沢諭吉(
→これ)、そして
夏目漱石(
→これ)。彼ら三人が三人とも、遙かのちに紙幣の図柄になっている事実に驚かぬ者はなかろう。しかも揃いも揃って三人とも切手と同じ肖像が用いられている。偶然にしては一寸できすぎた話だ。
特筆すべきは凹版印刷にみる水際立った彫版技術である。ごく小さな紙面に、数少ない線刻のみでモデルの相貌が実に巧みに捉えられている。当時の大蔵省印刷局はよほど練達の彫版家を抱えていたのであろう。
そして本エントリーの主役である
西周(
→これ)と
木村栄(
→これ)。精確に彫られた線刻の鮮やかさはここでも変わらない。拡大にも充分に耐え得る美しさである。
知名度において格段に劣るにも拘らず、
西周切手はわれわれ
フィラテリスト(切手収集家)にとって熱烈な讃仰の対象となった。なぜなら十八種の文化人切手中この一枚だけが評価額(すなわち切手商での売価)が矢鱈と高く、したがって小学生にとっては高嶺の花にして羨望の的だったからである。
その理由については諸説あるようだが、最も信頼のおける
内藤陽介氏のブログから一節を引かせていただく(全文は
→ここ)。
当時、郵政省の切手係であった八田知雄によると、当時、東京中央郵便局切手普及課は記念・特殊切手の売れ残り在庫を大量に抱え、その処理に苦労していました。このため、郵政省としては、西切手から切手普及課への切手の配給数を変更し、従来の4分の1にあたる5万枚にまで減らしました。このため、切手普及課での西切手の在庫処理は順調に進みましたが、その一方で、こうした変更は一般には明らかにされなかったため、従来どおり、「切手普及課に行けばいつでも買える」と考えていた収集家や切手商の中には西切手を入手しそこなう者が続出。市場ではこの切手が品薄となったといいます。
こうした供給側の事情にくわえ、西切手は、郵便料金改正後最初の文化人切手となったことから、新料金の10円切手の需要が急増し、普通切手の供給不足を補うかたちで大量に消費されました。このため、未使用の残存数は、さらに少なくなり、結果として西切手の市価が高騰したものと考えられます。
なるほど、もともと発行枚数が少ないうえ、あらかた使用されてしまったわけだ。
(明日につづく)