観るともなしにTVを点けたら「
上海バンスキング」の舞台中継が始まった。今年の三月、シアターコクーンでの上演だという。なんでも十六年ぶりの再演が叶ったのだという。冒頭にニ・二六事件の噂が出るので時代設定は1936年以降なのであろう。
そういえば、と思い出す。もう七、八年も前になるだろうか、神保町の古本屋で楽譜を漁っていて一群の奇妙な薄冊ピースにふと目が留まった。
"Flying Down to Rio"
Words by Gus Kahn & Edward Kliscu
Music by Vincent Youmans
表紙には赤茶色でドロレス・デル・リオとフレッド・アステアが向き合う写真。云うまでもなく映画『
空中レビュー時代』(1933)の主題歌だ。
"The Boulevard of Broken Dreams"
Lyric by Al Dubin
Music by Harry Warren
これは映画『
ムーラン・ルージュ』(1934)の挿入歌。だとすればこの表紙の写真はコンスタンス・ベネットとフランチョット・トーンなのか。
"Dames"
Lyrics by Al Dubin
Music by Harry Warren
これも同名映画(1934)の主題曲。日本での封切名は『
泥酔夢(でゑむ)』と洒落ている。表紙の三人はディック・パウエル、ルビー・キーラー、ジョーン・ブロンデル。
"I've Got to Sing a Torch Song"
Words by Al Dubin
Music by Harry Warren
同じくこれもワーナーのミュージカル映画『
ゴールド・ディガーズ』(1933)からの曲。邦題は「トーチソングを歌おう」だろうか。表紙は居並ぶ美女のコラージュだ。
"Flirtation Walk"
Lyric by Mort Dixon
Music by Allie Wrubel
これもキーラー&パウエル主演の同題のミュージカル映画(1934)の主題歌。知らなかったがこの映画の邦題は『
お姫様大行進』というのだそうな。
要するにこれらの楽譜は世界を席捲したトーキー・ミュージカルの主題歌・挿入歌の類いなのであるが、不思議なのはどの楽譜も裏表紙は真白で奥付がなく、したがって版元も刊行年も皆目わからない。
手に取って眺めていてハタと気づいた。ひょっとしてこれらは非合法の海賊版ではないか。表紙の印刷が悪く、デザインも垢抜けないのはそのせいなのだろう。よくよく観察すると一冊に丸いスタンプが押されている。「
CHINA EMPORIUM LIMITED・中華百貨有限公司 音樂部」とある。販売店のスタンプである。してみると、これらの楽譜は上海か香港あたりで買い購められたものと推察されよう。
これらとは別に版元名がはっきり明示されている楽譜群もある。
"Angel"
Featured in the Paramount Picture
作詞作曲のクレジットはないが、パラマウント社の『
天使』といえばルビッチュ監督作品、マルレーネ・ディートリヒ主演のあの映画(1937)に違いない。してみると作曲はフリードリヒ・ホレンダーなのか。表紙は女性を抱きかかえる男性のイラスト。
"I'm Happy about the Whole Thing"
From the Warner Bros. Picture "Naughty but Nice"
これもクレジットなし。調べたらわかった。ディック・パウエル、アン・シェリダンの主演映画(1939)の挿入歌で作詞 Johnny Mercer/作曲 Harry Warren。ただしこの映画は日本未公開らしい。シェリダンの写真を丸くあしらった洒落たデザイン。
"Pretty as a Picture"
Sung by Jeannette MacDonald and Nelson Eddy
From the Metro-Goldwyn-Mayer Production "Sweethearts"
ジャネット・マクドナルド=ネルソン・エディの名コンビの共演映画(1938)。ヴィクター・ハーバートの同題のオペレッタの映画化だそうだが、これまた日本未公開。楽譜表紙はパレットと絵筆にご両人の写真を配した図柄でそれなりに粋なもの。
"All I Do is Dream of You"
from "Sadie McKee"
これはジョーン・クロフォード初期の主演映画『
蛍の光』(クラレンス・ブラウン監督作品、1934)の挿入歌。男声によって歌われる甘美なメロディで例によってクレジットはないが、作詞 Arthur Freed/作曲 Nancio Herb Brown とのこと。
以上の楽譜の裏表紙には(表記法はまちまちだが)版元名が示される。すなわち
Palo & Co.
百樂公司出版
Sole Agents Apollo Piano Co., Ltd.
862, North Szechuen Road
(corner Quinsan Road)
Shanghai
North Szechuen Road は「北四川路」、Quinsan Road は「毘山路」といい、いずれも当時の上海の共同租界に実在した通りである。北四川路の一帯は日本人が多く居住した繁華街で内山完造の内山書店もここにあったという。
表紙には "Palo Songs Inc" とあり、ロゴマークまで入っているが、Palo 「百樂」なる版元については不詳。やはりこれらも海賊版なのか、作詞・作曲家名が明記されないのはそれ故であろう。デザイン的に先の一群より余程ましなのは、おそらくアメリカの元版に依拠したからだろう。事実、上の "All I Do is Dream of You" の表紙はオリジナル(
→これ)そっくりだ。
ともあれ上海では最新のハリウッド映画の主題歌や挿入歌が逸早く流通していた。すべて英語版なのであくまでも当地在留の英米人向けだったのだろうが、日本では手に入らぬ曲も多く含まれたから邦人たちの間でも珍重されたに違いない。
それにしても、永い歳月これらの楽譜はどこに眠っていたのだろう。
保存状態はどれも頗る良好だ。旧蔵者は一体どのような人物なのか。上海や香港に商用で出掛けた音楽好きの人物だろうか? それとも自らも音楽に携わったバンド関係者だったのか?
いずれにせよ、アメリカ最新流行のヒット曲(当時の呼称に従えばすなわち
ジャズ)が上海租界で熱狂的に享受された時代、すなわち「
上海バンスキング」時代がかつて実在したことをまざまざと物語る、儚くも健気な楽譜群なのである。