先日たまたまピーター・ピアーズ卿がハープを伴奏に歌うベンジャミン・ブリテン卿の民謡編曲を耳にしたのをきっかけに別のディスクを無性に聴きたくなった。つまるところピーター卿の老いた歌唱に満足できなかったのだ。
"The trees they grow so high"
ブリテン:
ある朝早く
ニューカースルからいらしたの?
優しいポリー・オリヴァー
木々は高々と育ち
梣(とねりこ)の茂み
ああ、切ない、切ない
返事のなんと甘きことよ
農家の少年
ホラ春ガ来タ
夏の名残の薔薇(庭の千草)
美女ハ愛ノ園ニイル
糸紡ギ女
愛しきわが故郷の竪琴
小さなウィリアム卿
ねえクッション縫える?
夜のしじまにしばしば
私ガ父ノ家ニイタ頃
慰めてくれる人もなく
オリヴァー・クロムウェル
ソプラノ/サラ・ブライトマン
ピアノ/ジョフリー・パーソンズ
1986年8月、11月、ロンドン、アビー・ロード第一スタジオ
EMI CDC 7 49510 2(1988)
このディスクをベンジャミン卿その人になんとしても聴かせたかった。それほどに瑞々しく、しかも痛切に心に沁みる歌唱なのである。なんと透明で怜悧な声なのだろう。清潔で明瞭なディクションで唄われた英国民謡はどんな言語よりも美しく響く。
『キャッツ』(1981)、『ソング・アンド・ダンス』(1982)、『オペラ座の怪人』(1986)でミュージカル界にスターダムの地歩を築いた歌姫
サラ・ブライトマンにブリテンの民謡編曲を歌うよう奨めたプロデューサーは相当な知恵者に違いない。本盤にはプロデューサーとしてジョン・フレイザーの名が記されるが、この企ての蔭の仕掛人は
アンドルー・ロイド・ウェバーその人ではないのかと小生は推察する。
そんなことはアルバムのどこにも明記されていないが、きっとそうに違いない。言うまでもなくブライトマンの才能を発掘し世に送り出したのはウェバーであり、当時ふたりが新婚夫婦だったのは周知のとおり。前年の1985年にはEMIからウェバーの新作「レクイエム」の初録音が出ており、そこでもブライトマンが独唱を務めている。
申し分のない美声で自信たっぷりに唄う現今のサラは好きでない。たしかに巧いことは認めるが歌唱にあらずもがなの人為的なマニエリスムが付き纏って心静かでいられなくなる。このブリテン編曲民謡集で聴ける彼女の歌はまるで別物だ。誰もまだ足を踏み入れていない春先の草原のような無垢の輝きといえばいいか。ジャケットの初々しいポートレートもまたそのことを予感させる(
→これ)。
冒頭の一曲目「
ある朝早く」で引き込まれる。知人の家でこのLP(当時はまだそういう時代だ)を初めて聴かされ、いきなり別世界に拉し去られる思いがしたのを昨日のことのように憶えている。われわれの世代にはNHK・TVの「
みんなのうた」でさんざん馴染んだ元気なマーチ調の「
走れ並木を」(1961年放送)の元歌である。こんなにもしみじみした民謡だったのか、ひっそり玄妙な和声を寄り添わせたブリテンの編曲がなんとも味わい深い。
ブライトマンの少女のよう(むしろ少年のよう)に衒いのない真っ直ぐな歌が好もしいし、当代一の名手
ジョフリー・パーソンズ(シュヴァルツコップ、ユーグ・キュエノー、ジェシー・ノーマンの伴奏者である!)を三顧の礼をもって起用したのが奏功している。なんと単純で深い音楽なんだろう。誰がこの歌を創ったのか。
今でも別の番号で再発され手に入る筈だ。とにかく聴いて欲しい。一家に一枚すべからく常備すべきアルバムである。