すっかり寝坊してしまった。雲で覆われた冴えない空模様。おや小雨が降りだした。これから暫くは根をつめたデスクワーク。やれやれ。
作業のお供にディスクをたて続けにかける。幸い家人は出掛けてしまった。
"Great performances from international archives: Casadesus"
モーツァルト: ピアノ協奏曲 第二十三番
ベートーヴェン: ピアノ協奏曲 第五番「皇帝」
ラヴェル: 左手のためのピアノ協奏曲
ピアノ/ロベール・カサドシュ
ゲオルク=ルートヴィヒ・ヨーフム指揮
クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮
ヘルマン・シェルヘン指揮
ケルン放送交響楽団
1956年3月7日、65年1月29日、57年3月11日、ケルン放送局(スタジオ収録)
Medici Arts MM032-2 (2009)
いずれも正規盤をはじめ複数の演奏ですでに聴けるピアニスト自家薬籠中のレパートリー。ただし指揮者がいつも聴き馴れたセルやオーマンディでなく、純独逸風の管弦楽伴奏なのでどこか勝手が違う。いつもながら玲瓏でクール・ビューティなピアノと、朴訥でぶっきらぼうな木管の音色とが絡み合う面白いモーツァルト。
次のベートーヴェンは甚だ感慨深い。なにしろ小生が生まれて初めて実演で聴いた協奏曲がほかならぬこの「皇帝」で(日本フィル特別演奏会)、しかもその独奏者が
ロベール・カサドシュその人だったからだ。1968年5月3日、ここで聴く録音の三年と少しあとのことだ。その四年後にカサドシュは歿してしまう。たいそう流麗で華やかな演奏と記憶しているが、こんなふうだったのだろうか。およそ剛毅な「皇帝」らしからぬ甘美なピアノだったような気がするのだが。
興味津々の聴きものはラヴェル。あくまでクールなカサドシュとホットで表現主義的なシェルヘンは全く対照的な作品像を描く。いうならまるきり水と油なのだが、それが不思議に融合して精妙なドレッシングの味わい。協奏曲は異種格闘技なのだ。
《モーツァルト: 後期交響曲集》
モーツァルト:
交響曲 第三十六*、三十九**、四十***、四十一番*
セレナード 第十三番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」****
ディヴェルティメント 第十七番 ニ長調*****
フリッツ・ライナー指揮
シカゴ交響楽団
1954年4月26日*、4月23日**、4月25日***、12月4日****
1955年4月23、26日*****、シカゴ、オーケストラ・ホール
BMG Japan RCA BVCC-38395/96 (2006)
久しぶりに続けざまに聴いて感嘆を新たにした。なんと確信に満ちたモーツァルトであろうか。剛直にして厳格で力に満ち、それでいて愉悦感にも欠けていない。
一言でいうならエラスティックな音楽なのである。ゴムのような弾力に満ち、撥条のような瞬発力を備えたモーツァルト。トスカニーニに似ていなくもないが、ライナーは更に柔軟だ。ワルターからアルノンクールに至るすべてのモーツァルト指揮者の顔色をなからしむる秀逸な演奏である。
フリッツ・ライナー恐るべし。
惜しむらくは「ジュピター」以外モノラル録音であること。1954~55年当時RCAはステレオ録音も試験的に並行して行っており、これらのセッションも例外でなかった筈だが、残念なことにステレオ・テイクは残されていない由。
モーツァルト:
交響曲 第三十五番
交響曲 第四十一番
ネヴィル・マリナー卿
アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
1984年12月17、18日、ロンドン、アビー・ロード第一スタジオ
EMI CDC 7 47466 2 (1986)
1970年代に小編成の手兵とモーツァルト交響曲全集を逸早く纏め上げたネヴィル卿(当時は称号はなかったが)が80年代に満を持して(?)臨んだ再録音。
すでに台頭しつつある古楽器演奏に押されて大して評判にならなかったらしいが、どうしてどうして、瑞々しくこまやかに神経のゆき届いた秀演である。とりわけ「ハフナー」が充実した演奏。端倪すべからざる
ネヴィル・マリナー。2008年5月に英京のセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ聖堂、すなわち彼らの根城で間近に接したハ短調
ミサ曲の感動的な実演の思い出が蘇ってくる(
→これ)。