家人が今日は早稲田大学まで出掛けると言い出した。
なんでも二時から
小田島雄志さんの講演会があるのだという。早稲田では毎年この時節には5月22日の坪内逍遙の誕生日を祝って「逍遙祭」というイヴェントが催されるのだそうで、今年は小田島教授が招かれて「
逍遙訳『ハムレット』と私」という標題で講演するのだという。
存(ながら)ふか、存へぬか? それが疑問ぢや。
世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢや。
生か、死か、それが疑問だ。
やる、やらぬ、それが問題だ。
このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
上から順に、逍遙(二通り)、福田恆存、小津次郎、そして小田島雄志の訳文である。「
このままでいいのか、いけないのか」──蓋し稀代の名訳というべきだろう。
その小田島さんが講演するというのだから聴き洩らす手はない、といいたいところだが、生憎なことに小生は同時刻に先約があって聴講できない。悔しいなあ。
それはそれとして早稲田まで出向くきっかけにはなる。つい先日のこと、演劇博物館で瞥見した「
チェコ舞台衣裳デッサン展」を改めてじっくり観なければならない。どのみち20日で終わってしまうのだ。今日行くことにする。
十時半に地下鉄の早稲田駅のホームに降りたったら、これから登校する学生の渦にいきなり巻き込まれる。そこからキャンパスまで人の波は延々と途切れることがない。凄まじい喧噪と人いきれに辟易しながら演博まで辿り着く。一転してひっそりひとけのない建物に入ると一気に別世界に参入する心持ち。
今回はたっぷり一時間かけて個々のデッサンを凝視。それこそ穴の開くほどにだ。中学・高校生の時分はいつもこうしていた。photographic memory という奴だ。なので四十年後の今も視覚的記憶はくっきり鮮明。久しぶりに初心に帰る思いですべての作品を記憶のスクリーンに焼き付けた。なにしろ二度と観る機会はないだろうから。この展覧会にはカタログはおろか、出品リストすら用意されていないのである。幸い同行の家人も両大戦間のチェコ演劇文化の豊饒さに驚いた様子である。
そのあと学内の食堂で早めの昼食。メニューの多彩さに目を瞠る。七百円ほど費やしたら腹一杯になる。まだ半時間ほど猶予があるので大隈庭園の入口にある洒落たカフェで珈琲を飲んで一服。周囲で英会話が飛び交う。外人学生の多さにも吃驚した。国際的な時代なのだ。
一時近くなったので家人は会場の小野記念講堂へ赴く。小生は所用のため、薄くなった後ろ髪を引かれる思いですごすごと地下鉄の駅へと引き返した。
夜遅く帰宅したあと、家人から講演会の様子を聞かされる。八十になるという小田島翁は意気軒昂、精力横溢して談論風発、一時間があっという間だったという。坪内逍遙のシェイクスピア訳は原文に頗る忠実、然るに福田恆存訳は随所に言葉を加え脚色を施した。自分の訳は原文に沿うことを心掛けた点で、逍遙に立ち戻ったものといえるという趣旨のお話だった由。配布資料から引いておく。
(原文)
Ham. ... I did love you once.
Oph. Indeed, my lord, you made me believe so.
Ham. You should not have believed me, for virtue cannot so inoculate our old stock but we shall relish of it. I loved you not.
Oph. I was the more deceived.
Ham. Get thee to a nunnery. ...
(逍遙訳)
H: ……以前は和女(そなた)を可憐(いとし)いと思ふてゐた。
O: 真実、妾(わたし)も其やうに存じてをりました。
H: さう思ふてゐやつたら、大間違ひぢや。徳はどう接木して見ても悪しい台木の元の気(け)は脱けぬ。可憐う思ふてはをらなんだ。
O: では大きな思ひ違へをしてをりました。
H: こりや寺へ往きや、寺へ。……
(福田訳)
H: ……さうだ、お前をいとほしいと思つたこともある。
O: ハムレット様、そのころは、本当に。
H: さう信じこんでゐたら、とんでもないまちがひだぞ。もともと、やくざな古木に美徳を接木してもはじまらぬ。結局、親木の下品な花しか咲きはしない──いとほしいなどとは大嘘だ。
O: そのようなこととは。
H: 尼寺へ行け。……
(小田島訳)
H: ……以前はおれもおまえを愛していた。
O: そのように、ハムレット様、信じさせてくださいました。
H: 信じてはならなかったのだ。もとの木がいやしければ、どんな美徳を接ぎ木しようとむだだ、いやしい花しか咲きはせぬ。もともとおまえを愛してはいなかった。
O: とすれば私の思いちがいはいっそうみじめなものに。
H: 尼寺へ行くがいい。……
(追記)
演博「
チェコ舞台衣裳デッサン展」は好評につき23日まで会期延長になった由。