佐藤慶が亡くなったそうだ。七時のニュースで訃報が流れた。亨年八十一という。もうそんなお歳だったのか。
クールに醒めたニヒルな役どころが実にさまになるスタイリッシュな名優。『日本の悪霊』(黒木和雄監督)、『鬼婆』(新藤兼人監督)、TVドラマ『白い巨塔』など出演作は枚挙に暇なかろうが、真っ先に思い出すのは一連の大島渚監督作品での冷酷無比にこりともしない人物造形ではなかろうか。『
絞死刑』(1968)の拘置所所長、『
無理心中日本の夏』(1967)の死にたがり男、『
白昼の通り魔』(1966)の白昼の通り魔などなど、一切の喜怒哀楽を欠いた非情な男をものの見事に演じていた。渡辺文雄、戸浦六宏、殿山泰司(みんな故人だ…)らとともに彼は大島作品に不可欠な「顔」だった。それにしてもいずれ揃いも揃って無類の面構えだったことよ。
たった一度だけ、佐藤慶のオフの生身の姿に遭遇したことがある。
それは1979年7月20日のこと。大学生協のプレイガイドでアルバイトしていた関係で配給会社の人から試写の招待状を貰うことがよくあった。役得という奴である。その日も
ベルナルド・ベルトルッチの新着作の試写があるというので、バイトを終えたその足で勤務先の目黒区駒場から文京区千石の
三百人劇場までいそいそ赴いた。『ラストタンゴ・イン・パリ』の大ヒットで、それまで未公開だった初期作品『蜘蛛の策略 Strategia del ragno』(1970)が漸く輸入され、『
暗殺のオペラ』の邦題のもと封切られようとしていた。この晩はそれに先駆けた招待試写だったのである。
例によって少し早めに到着、おもむろに真正面中程の席に就く。映画の場合すぐ前に誰か座高のある者に坐られると辛いものであるが、ここでは心配無用。三百人劇場はもともと観劇用に設計されており、擂鉢状に客席に傾斜がついているので、邪魔されることなくとても観やすいホールなのである。
配られたプレス資料などに目を通していて七、八分ほど経っただろうか。
サングラスをかけ、すらり痩身で姿勢のよい中年男が右方からふらっと現れ、通路で誰か関係者と小声で囁いたあと、足早に一列前の中央やや右寄り、すなわち小生のすぐ斜め前の席にそっと腰掛けた。その間、十秒ほどだろうか。
なにやらただならぬ気配があたり数メートル圏内に漂っていた。電気のようなものだ。殺気というべきか。これは只者ぢゃないと直覚する。一体誰なのだろう。こっそり盗み見るうち、やがて男はサングラスを外した。間違いない、佐藤慶だ。
まてよ、この話は前にもしたような気がする。検索してみるとやはりそうだ。二年半ほど前の2007年12月21日(佐藤慶の誕生日)に同じ思い出を書いているではないか。ええい、ままよ、その一節を引いてしまおう。
1980年頃だと思うのだが、千石の三百人劇場でベルナルド・ベルトルッチの封切作の試写会があった。忘れもしない『暗殺のオペラ Strategia del Ragno(蜘蛛の策略)』だ。期待に胸膨らませて、早くから中央附近の観やすい席を確保し、配布資料などに目を通していたら、トレンチコートを格好良く羽織り、黒のサングラスをかけた短髪の男がすうっと入ってきて、小生の斜め前におもむろに着席した。なんというか、常人とは異なる、ただならぬ気配を察知し、横顔を注視していたら、サングラスを外したので佐藤慶だとわかった。
お蔭でその日の『暗殺のオペラ』には、どこかで佐藤慶の殺気が混入し、いくらか大島渚の映画めいた印象があった、ような気がする。
ベルトルッチの映画が大島渚めいた印象を齎したというのは、それが革命と裏切りと暗殺の物語であるとはいえ、いくらなんでも言いすぎだろうが、試写会の間じゅう小生はすっかり冷静さを失い、ついつい佐藤慶の横顔が気になってスクリーンに意識を集中できなかったことだけは確かである。
映画が終わるや、彼は再びさりげなくサングラスをかけ、何事もなかったようにクールな無表情のまま飄然と席を立って姿を消した。
客席でゆかりなく著名人と出喰わし、そのすぐ傍に坐る破目になるとそれだけで困惑する。あちらはなんともないのに(当たり前だ)、こちらは矢鱈と緊張してどぎまぎしてしまうのだ。
これまでの人生でそうした体験が何度かある。水戸芸術館でのフォン・オッター独唱会ですぐ真後ろに吉田秀和館長ご夫妻が着席されたとき。京橋のフィルムセンターの「カール・ドライヤー特集」で隣席に蓮實重彦氏が坐ったとき。そしてベルトルッチ映画を佐藤慶氏のすぐ斜め後ろで観たあの晩。これら三度の接近遭遇体験は終生忘れることができないだろう。