(承前)
スイスの誇る国際的なオーケストラといえばジュネーヴを本拠とするスイス・ロマンド管弦楽団だろうが、半世紀にわたって君臨し、二年前の1968年には共に来日した創設常任指揮者エルネスト・アンセルメを翌年に喪ってからは往時の輝かしい顔色を急速に失いつつあった。他にもベルンやチューリヒやルガーノにもオーケストラはあるにはあるが、知名度も実力も集客力もスイス・ロマンドに遠く及ばなかった。
水面下でどのような折衝があったか詳らかにしないが、結局この大阪万博の年にスイスは自国の管弦楽団を送り出すことが叶わず、指揮者と独奏者と独唱者を派遣して日本のオーケストラと共演させるという窮余の一策でお茶を濁したとおぼしい。当夜の読売日本交響楽団「名曲シリーズ」が「
スイスの夕」と銘打たれていたのはそうした次第である。そうした弱小国の悲哀は田舎者の高校生にもなんとなく了解できた。「
ああ、せめてアンセルメが生きていたらなあ」と心中密かに嘆息したものだ。「
シャルル・デュトアなんて知らないや」と。
それでもわざわざ前売券を買って「スイスの夕」に出掛けたのは偏にそのスイスの無名指揮者が「
マルタ・アルゲリッヒの夫君」だと聞いたから。それ以外にさしたる理由はなかったと思う。同年1月にアルヘリッチが初来日した際、シャルル・デュトワも少し後に合流し、京都でヴァカンスを過ごした写真記事が『音楽の友』誌に掲載され、「
どんな指揮者なんだろう」と好奇心をそそられたのだ。「
アルゲリッヒが夢中になるくらいだから、さぞかし凄い指揮者なのかしらん」というわけだ。
幼稚な小生は更にこんな子供じみたことも夢想した。「
その指揮者の演奏会を聴きに、ひょっとしてアルゲリッヒがお忍びで再来日するかもしれないな」、と。三か月前の来日時にリサイタル(1月15日)とコンチェルト(1月26日)をつぶさに見聞した高校生は、芳紀ニ十八歳のアルヘンティーナ嬢の天才と美貌にぞっこん惚れ込んでしまったのである。今は昔、四十年前の出来事だ。
われながら感心してしまうのは、この「スイスの夕」のため周到に準備して臨んでいること。事前にわざわざ上野の東京文化会館の音楽資料室で該当するレコードを耳にして当日のプログラム曲目をあらかた予習しているのだ。
オネゲル: 交響曲第3番「礼拝」
マルタン: フルート、弦楽合奏とピアノのためのバラード
リヒャルト・シュトラウス: 4つの最後の歌
リヒャルト・シュトラウス: 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
オネゲルとマルタンはスイスが世界に誇る二大作曲家。シュトラウスの「四つの最後の歌」も老作曲家のスイス隠遁期の作だから、まあこれも「スイス音楽」といえなくもない。それなりに同国のプライドのありかを如実に示した曲目編成なのである。最後の「ティル」以外は未知の曲ばかりだった。
なので十日ほど前の土曜日に上野まで出向いて(きっとまた学生服姿でだ!)、オネゲルの第三交響曲(セルジュ・ボード指揮)とシュトラウスの「四つの最後の歌」(シュヴァルツコップ独唱、セル指揮)のLPをヘッドホンで熱心に試聴した(マルタンの「バラード」は珍しい曲らしく、資料室にも音源が見当たらなかった)。十七歳の少年がいかに真剣だったかは、今も手許に残る当日の音楽ノートからも窺える。なにしろ、ライナーノーツのあらましと、「四つの最後の歌」の対訳(独&日)をまるごと丁寧に書き写しているのである。たしか当時の音楽資料室にはコピー設備なぞなかったと記憶する(あったとしても青紫色に感光する湿式複写機の時代である)。
(明日につづく)