人間の記憶はどこまであてになるものだろうか。
ましてそれは昨日や一昨日のことではない。四十年も前の演奏会を思い出そうとしたとき、そのとき見聞した映像なり音響なりの残像がどのくらい脳裏に留められているのか、その信憑性は果たしてどの程度なのかとなると俄かに心許なくなる。そもそも憶えているという認識それ自体がまやかしなのではないか。
大学生の頃、吉田秀和さんが初めて欧米を旅したとき幸運にも間近に接した往年の名匠たち、トスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュらの指揮ぶりについて回想する文章を読んで、「うわあ、なんと大昔の出来事であることよ、しかもそれらがなんと鮮明に蘇るのだろう」と賛嘆久しうしたことがあったが、考えてみたら吉田さんはわずか二十年前の体験を語っていたに過ぎないのだ。小生が今になって必死に甦らせようとしている記憶はその二倍も古い太古の昔に属するのである。殆どジュラ紀に近い考古学的記憶なのだ。
今日からきっかり四十年前の
1970年4月21日、東京の日比谷公会堂にいた。
読売日響名曲シリーズ 第53回 「スイスの夕」
1970年4月21日(火) 7:00~
日比谷公会堂
指揮=シャルル・デュトア
フルート=オーレル・ニコレ
ソプラノ=リーザ・デラ・カーザ
オネゲル: 交響曲第3番「礼拝」
マルタン: フルート、弦楽合奏とピアノのためのバラード
リヒャルト・シュトラウス: 4つの最後の歌
リヒャルト・シュトラウス: 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
A=1,800- B=1,500- C=1,200- D=900-
日比谷公会堂はこのときが初めてだった。音楽会に足を運ぶようになってまだ日の浅かった小生は上野の東京文化会館と新宿の厚生年金会館と内幸町のNHKホールしか知らなかった。もっとも当時の帝都にはオーケストラが演奏会を催せるだけの広さを備えた音楽ホールが以上の四つくらいしかなかったのだ。戦前の建物である日比谷公会堂の厳めしく古色蒼然たる佇まいは田舎の高校生をたじろがせるに充分だった。いささか過剰なまでに緊張して席に着く。
このコンサートのことは読売日本交響楽団からの案内で知ったのだと思う。1月26日のアルヘリッチの協奏曲(プロコフィエフの三番、若杉弘指揮)聴きたさに三回分の通し切符を購入したので、定期公演とは別枠の「名曲シリーズ」の案内チラシが自宅に郵送されてきたのである。因みにこの日は平日だから小生は埼玉の片田舎から黒い革鞄を携え学生服姿で出掛けたのだろう。ああ穴があったら入りたい。
「名曲シリーズ」と銘打たれていても、この演奏会はいつもと性格を異にしていた。
1970年は途轍もない年だった。大阪万博に合わせて欧米各国のオーケストラが大挙して来日し、威信をかけて至芸を競い合う。春から秋にかけて東京でも以下のような面々が犇き合ったのである。
米=クリーヴランド管弦楽団(セル、ブーレーズ)、NYフィル(バーンスタイン)
ソ=レニングラード・フィル(ムラヴィンスキー)
独=ベルリン・フィル(カラヤン)
仏=パリ管弦楽団(プレートル、ボド)、パイヤール室内管弦楽団(パイヤール)
英=ニュー・フィルハーモニア(バルビローリ)、イギリス室内管弦楽団(レッパード)
伊=ヴィルトゥオージ・ディ・ローマ合奏団(ファザーノ)
波=ワルシャワ・フィル(ロヴィツキ)
加=モントリオール交響楽団(デッカー)
「音楽の万博」さながらの賑わいだ。ムラヴィンスキーはキャンセル、バルビローリは来日目前で急逝したが、それでも目も眩むようなラインナップであることは変わらない。これにボリショイ歌劇場やらスヴャトスラフ・リヒテルまでが加わった。この年わが国の音楽界は前代未聞の狂騒ぶりを呈していたのである。
嗚呼それなのに、弱小国スイスは悲しいかなオーケストラを派遣できなかった。
(明日につづく)