今日が4月17日であることに驚きを覚えずにはいられない。
濃い珈琲を呑んで寝惚け頭に喝を入れ、降り止まぬ雨のなかを勇んで出掛ける。天候など些細なことだ。なにしろ特別の日なのである。行先はまたも川村記念美術館。先週から始まった展覧会「
ジョゼフ・コーネル× 高橋睦郎 箱宇宙を讃えて」の関連イヴェントとして高橋さんの朗読会がある。万難を排して赴かねばなるまい。
すべては一篇の詩から始まった。
1993年春にこの美術館で開催された「
ジョゼフ・コーネル展」に講演者として招かれた高橋睦郎さんが披露されたコーネルに捧げる詩「
この世あるいは箱の人」があまりにも素晴らしかった。その忘れがたい想い出に接ぎ木するように、学芸員の林寿美さんが高橋さんを誘ったのだという。「もう一度、コーネルで御一緒できたらいいですね」と。それに対し高橋さんが「自分は詩人だから、川村記念美術館にあるすべてのコーネル作品に詩を捧げましょう」と応じたのが今回の展示なのである。
三たび展示室に足を踏み入れた。やはり素晴しい。恍惚となる。これまで体験したどんなコーネル展示よりも優れている。傍らに添えられた高橋さんの短詩がどれもいい。作品そのものを決して説明したり解釈したりせず、ただ「ここに佇んで、この場所から覗いてごらん、何が見えますか?」と誘っているだけだ。なんという潔さだろう。
美術館HPにもあるので一篇だけ引用してしまうと例えばこんなふうだ。
音符の蜂でぎゅう詰めの巣箱
表面を叩くと 出てくる 出てくる
耳の孔からはいった蜂たちは
頭蓋を あたらしい巣箱にする
音楽の甘い蜜でいっぱいの巣
これは七つある箱のひとつ『無題(ピアノ)』(
→これ)に捧げられた詩だ。
二時からの朗読会では高橋睦郎さんに加え、日本文学研究家で翻訳家のジェフリー・アングルスさんが並んで坐り、まず十七年前の頌詩「この世あるいは箱の人」を日本語と英語で一連ずつ交互に読み、そのあと展示作品十六点に捧げた短詩のすべてを日本語と英語で朗読。まことに夢のようなひとときが現出した。
先日お目にかかった際、「
十七年前にいらしたとき、高橋さんは旧式の黒い電話の受話器を手に取り、そこに向かって朗読されたんですよね、まるで冥界のコーネルに電話をかけるみたいに」と申し上げたら、高橋さんは虚を突かれたように
「えっ、そうだったの? 全然憶えていないなあ、そんな芝居がかったパフォーマンスをしたんですか。僕も若かったんですね」と吃驚されていた。で、今日の講演でもその驚きを口にされ、「でも今日はそんな仕掛けなしでも、僕の言葉はきっとコーネルに届くでしょう、なにしろ英語でも朗読しますので」とお隣のジェフリーさんと目配せしあった。
驚いたことにかつて高橋さんが川村記念美術館を訪れ、「この世あるいは箱の人」を朗読初演されたのは1993年4月17日土曜日の二時から。きっかり今日から十七年前の同月同日同時刻だったのである。奇遇というべきだろう。天の配剤なのか。
その最終連が読まれたとき今日も涙が滲むのを禁じ得なかった。絶唱とはこれだ。
止まり木をふるわせ 砂をこぼし
板硝子にすばやい亀裂を走らせて
影は去ってしまった
去ってしまった その行き先の
本当の世界を覗き 吸いこまれる
ための井戸枠 ぼくらの前にある
これら なつかしい箱たちは
今日が4月17日であることに改めて驚きを覚えずにはいられない。