あまりの素晴らしさに言葉を失う。夢ではないのか。
とここまで書いて昨晩はその先へ進めなくなった。確かに観たはずの展示がなんだか幻のように思えてきたからだ。その部屋に足を踏み入れたことも、そこで高橋睦郎さんと言葉を交わしたこともすべてが白昼夢だったような気がしてきた。
車窓から里山のあちこちに咲き競う桜を目で追いながら昨日の興奮を反芻していたら、ほどなく電車は目的地の佐倉に着いた。そこから送迎バスで川村記念美術館へ。ふと時計を見ると九時四十分。開館時刻を少し回ったところだ。
入口でチケットをもぎってもらうとそのまま足早に回り階段を二階へ。初日を迎えたばかりの展覧会「
ジョゼフ・コーネル× 高橋睦郎 箱宇宙を讃えて」の最初の観客になるのだと心は逸る。まだ誰もいない展示室で昨日の印象が偽りでなかったことを冷静な目で是非とも確かめねばならぬ。
展覧会名の記されたフォワイエを抜けると、そこは展示室へ続く前室。正面の白壁に十七年前の詩篇「
この世あるいは箱の人」の全文が掲げられている。八十六行に及ぶ長詩である。
すすけたマルメロの木蔭
ほこりっぽいバラの繁み
──そのむこうには
蔓草の絡んだ 仕切りの金網
ツユクサだろうか イヌタデだろうか
それら 植物の群落に打ち上げられて
雨風の洗いあげた木の安楽椅子に 身を凭せ
死者のように 鳩首に両手を組んだ
この 遠い世界からの漂流物のような人物は
いったい誰ですか
この人は老いさらばえた少年 衰弱した天使
夢の箱舟が この人を攫って来た
いつだったか 昨日? それとも百年前?
ゆっくりと黙読。二度目は口のなかで小さく呟くように音読。震えが来る。
この詩のなにより凄いのはジョゼフ・コーネルのポートレートが正確無比な修辞で描き出されていることだ。上に引いた冒頭部分における「すすけたマルメロの木蔭」や「ほこりっぽいバラの繁み」の傍らで「雨風の洗いあげた木の安楽椅子に 身を凭せ/死者のように 鳩首に両手を組んだ」老人のイメージは、自宅の庭で休息する晩年のコーネルを写真家
ハンス・ナムスが捉えたスナップショットを厳密に踏まえている。そして高橋さんは「この 遠い世界からの漂流物のような人物は/いったい誰ですか」と問いかけ、「この人は老いさらばえた少年 衰弱した天使」だと見抜き、「夢の箱舟が この人を攫って来た」のだと喝破する。
これはほんの一例であり、この詩篇のあらゆる細部は高橋さんが1992年秋に鎌倉の神奈川県立近代美術館でつぶさに接しられた「ジョゼフ・コーネル展」での実見体験と、その折りに熟読された展覧会カタログ所収の評伝(
サンドラ・L・スター女史)の内容を正しく咀嚼したうえで綿密巧緻に編み上げられている。文学者にありがちな放埒で身勝手なファンテジーでは断じてないのだ。
そして終わり近く、
では これらの箱たちは?
これらの箱たちに囚われた王女たち
バレリーナたち、ウサギの王子たち
オウムたち ミツバチたち チョウたち
それら はかない者たちの仮象を借りて
この人は そこに宿っているのか
とあるくだりまで読み進めたとき思わず涙が滲むのを禁じ得なかった。箱のなかに囚われた「王女たち」も「バレリーナたち」も「ウサギの王子たち」も、悉くが十七年前のコーネル展の出品作を律儀なまでに正しく反映したものだからだ。
本当にこの詩は素晴らしい。ここには確かにジョゼフ・コーネルが棲まっている、凄いことだなあ、とひとりごちて振り向くとそこにはハンス・ナムス撮影のコーネルのポートレートがちゃんと掲げてある。その周囲の白壁にはいたるところ★が点在する。五芒星は天空に憧れたコーネルゆかりの表徴なのである。
この前室が本展のいわばイントロダクション。小さな扉口から展示室へと導かれるとそこは一転して夜の帳に包まれた星空の世界。微かなスポットライトに照らされて、この美術館が所蔵する十六点のコーネル作品が暗闇のなかに仄かに浮かび上がる。広大無辺の空間に浮遊する島宇宙=星雲といった趣だ。
いきなり漆黒の闇に放り出された鑑賞者は寄る辺なきアストロノート=宇宙旅行者となってあてどなく彷徨う。宇宙とはもちろんコーネルの想念のなかに胚胎した仮想空間と同義であり、小さな箱作品のそれぞれに「夢の欠片」として凝縮され封入されているものだ。本展では更に展示室全体をもひとつの大きな「箱」と看做し、魅惑と謎に満ちたコーネル空間の等価物と定義づける。なんという大胆な企てだろう。
(4月17日につづく)