心して封を切る。演奏家がそれまでの全人生を集約するかのように満を持して取り組むのなら、聴き手の側にも相応の覚悟が必要だ。このアルバムを漫然と聞き流していい筈がないのである。
本当は昨年末すぐに手にしていなければならなかった。入荷が遅れたまま越年し、ようやく今頃になって聴く機会を得た次第である。逸る気持ちを鎮めながらディスクを恭しくそっとターンテーブルに載せる。
"Viola Concertos: Béla Bartók - Paul Hindemith"
バルトーク:
ヴィオラ協奏曲 (原典版)
シェーンベルク:
浄夜
ヒンデミット:
シュヴァーネンドレーアー
ヴィオラ/今井信子
ガーボル・タカーチ=ナジ指揮
ジュネーヴ高等音楽院管弦楽団
2008年12月15~18日、ジュネーヴ、エルネスト・アンセルメ・スタジオ
2008年12月22、23日、ジュネーヴ、ヴィクトリア・ホール
Panclassics PC 10215 (2009)
俄かに信じられないことだが、その四十年に及ぶキャリアのなかで
今井信子さんは
バルトークのヴィオラ協奏曲をこれまで一度も録音していないのだ。さして作品の多くないこのジャンルにおける最高傑作と誰もが認めるこの曲を、あたかも彼女は避けて通ってきたかの如くである。
いやむしろ、飛び抜けた傑作だからこそ、その録音を先延ばししたのではないか。自ら心技体ともに真の円熟を迎える日を密かに期していたのかもしれない。バッハの無伴奏全曲をロストロポーヴィチが晩年まで録音しなかったように。
熟成を待っただけの甲斐はあった。今井さんのバルトークは確信に満ち、骨太でしかも透明、深く沈潜する歌心と火花の散るような瞬発力とが交錯する。つまりそれこそは作曲者が待ち詫びていたに違いない究極の演奏の姿である。
彼女が共演者として招き入れた指揮者
タカーチ=ナジにとってのバルトークもまた完全に軌を一にしていて、両者が描き出す音楽の輪郭が寸分の狂いもなくピタリと重なり合うのが聴いていて怖いくらいだ。
パッケージにある「デッラマジョーレ新校訂版」の註記が些か耳慣れなかったが、要するに作曲者の次男ピーター・バルトークの肝入りで1995年に出た校訂譜のことである。即ち以前 Naxos レーベルから出たホン=メイ・シャオ独奏の盤でお目見えした「ノイバウアー改訂版」と全く同一である。この版が出て、従来とかく恣意的ではと噂されたティボール・シェルイの補筆完成版が存外バルトークの指示に忠実だったことが明らかになった。いずれにせよ、今井さんの選んだ校訂版が限りなく作曲者の意図に近いことは納得できる。あゝ、
この演奏をバルトークに聴かせたかったなあ。そして、今は亡き小倉朗、柴田南雄、徳永康元のお三方にも。
(明日につづく)