たまたま上野で野暮用があり、そのあと三、四十分ほど空き時間が生じたので、ふと思い立って
国立西洋美術館に駆け込む。
限られた時間内での鑑賞なので、特別展は遠慮して常設展示のみの切符を所望する。ここの常設作品はこのところ頻繁に観ているので足早に通過。ル・コルビュジエの本館から前川國男の新館へと歩を進め、ここもあらかた素通りして新館二階の片隅にひっそり付随する「版画素描展示室」へ赴く。ほの暗い小さな一室で開催中の「
所蔵水彩・素描展──松方コレクションとその後」が今日のお目当てだ。
モロー、セガンティーニ、モネ、セザンヌ、ゴーギャン、モーリス・ドニ、ロダン。どれもが珠玉の逸品だ。その多くが松方コレクションであることに改めて驚かされる。
紙に描かれた脆弱な作品なので常設展示はできない。したがって三十八点の展示作品はこの機会を逃すといつお目にかかれるかわからない。なにしろ、この美術館はこれまで所蔵する水彩・素描作品の展示に頗る不熱心だったのである。
小生にとって今回の展示の目玉はなんといっても次の一点である。
アンリ・マティス
ピアニスト、アンリ・ジル=マルシェの肖像
1924年
木炭、紙 55.0 x 62.0 cm
これは私たちにとって貴重この上ない作品である。いささか頭でっかちで太り気味の男性が横を向いてピアノに向かっているだけの平凡なデッサンにみえるが、モデルを務める
アンリ・ジル=マルシェックス Henri Gil-Marchex (1894~1970)は日本の近代音楽の発展に少なからぬ貢献をしたピアニストなのである。
アルフレッド・コルトー門下の俊英で、同時代音楽を得意としたジル=マルシェックスはモーリス・ラヴェルからの信頼厚く、ジプシー音楽を模した「
ツィガーヌ」の世界初演を委ねられ、1924年4月26日ロンドンで閨秀ヴァイオリン奏者
イェリー・ダラーニの伴奏ピアノを弾いたことで音楽史に名を残す。
翌1925年秋には
薩摩治郎八の招聘で遙々初来日を果たし、帝国ホテルの演芸場で連続リサイタルを催した。そのときの演目が凄い。凄すぎて目が眩むほどだ。
ルーセル: 前奏曲 嬰ヘ短調 作品14
フローラン・シュミット: この影 わが幻 作品64-3
ラヴェル: 夜のガスパール、亡き王女のためのパヴァーヌ、五時のフォックストロット
プーランク: 三つの無窮動
ジャン・クラス: 海の風景
イベール: 三つのめぐり逢い (花売娘、クレオール、お喋り女)
バルトーク: アレグロ・バルバロ
デ・ファリャ: 粉屋の踊り ~『三角帽子』より
ミヨー: ブラジルの郷愁
ストラヴィンスキー: ピアノ・ラグ・ミュージック
1925年の時点ですべての作曲家が存命中、即ちこれらは紛れもなく最先端の現代音楽だった。おそらくその悉くが日本初演であろう。
(まだ書き出し)