昨日、三十年前の先輩と再会し旧交を温めて帰宅したら訃報が届いていた。美術出版社の編集者の
鈴木一男さんが亡くなったのだそうだ。二月十九日のことだという。寝耳に水、全くもって青天の霹靂である。
鈴木さんには世話になった。なにしろ最初の著書『
12インチのギャラリー』の担当編集者だったのだから多大な恩を蒙ったことは間違いない。その書影は当ブログの左上にいつも掲げてある。
この本が世に出るまでには幾つもの偶然が関与している。
1988年の秋だったと思う。音楽出版社の
梅田英喜という未知の編集者から「LPジャケットを使った連載をしたい」と打診された。なんでもオーディオとヴィジュアルを連動させた新季刊誌『ListenView』のカラー頁に掲載を考えているのだという。あとで聞いたら、西洋の楽器を美術史の観点から採り上げる連載をまず若桑みどり教授に頼んで断られ、教授の紹介でその執筆を引き受けた知人が「LPをジャケットの観点で蒐めている奴がいるぞ」と小生のことを引き合いに出したのだという。梅田氏は会うなりすぐに「面白そうだから是非やりましょう」と決断した。「12インチのギャラリー」という名称も彼が思いついたものだ。
ちょうどその頃、小生はフリーの編集者として日本放送出版協会から出るシリーズ『エルミタージュ美術館』の編集に忙殺されていた。毎月たて続けに全五冊のムックを刊行しなければならない。文字どおり不眠不休、目の回るような忙しさで、睡眠時間は三時間を切っていたと思う。
そんな時期に連載を引き受けるなど正気の沙汰ではない。手許にある八千枚のLPから毎回三十点ほどを選んで紹介するというヴィジュアル企画なので安請け合いしてしまったが、ただ図版を並べれば済む話ではない。それなりの解説文を添えて読者の興味を掻き立てねばならないからだ。おまけに当時の小生は文章を書くのが大の苦手だったのである。
とにかく必死の思いで泣く泣く拙文を捻り出した。見かねて家人が手伝ったほどだ。
幸いなことに連載は軌道に乗った。編集部内では賛否あったらしいが、梅田氏は何かにつけ褒めてくれ、同じ雑誌に寄稿されていた映画評論家の
岡俊雄さんが「この連載が愉しみで、いつも雑誌が届くとそこの頁から開くことにしている」と口にされたと梅田氏から聞かされ、嬉しさに天にも昇る心地がしたものである。
それから程なく編集の仕事から足を洗って美術館に奉職した。えらく辺鄙な場所にある館なので、東京の練馬から千葉の佐倉まで往復五時間の電車通勤の徒然なるまま、膝にワープロを載せ「12インチのギャラリー」執筆に勤しんだものだ。
連載は1991年の夏まで十回続いた。三回目にはディアギレフの
バレエ・リュスを、四回目には偏愛する詩人
ジャン・コクトーを採り上げた。最終回は「夏の歌」と題し、幼い日にTVで観た
ケン・ラッセル監督の同名の映画に因んで、英国の世紀末作曲家
フレデリック・ディーリアスの晩年を話題にした。LPレコードからは些か縁遠い題材だったが、「ええい最終回だから構うものか」と思い切り、例によって往還の車中で興に任せて書いたら、(自分で云うのも口幅ったいが)会心の文章が仕上がった。天啓とはこれかと思った。生まれて初めての体験だった。
連載が終わってほっとしていたら、電話が鳴った。美術出版社からである。連載を本にしないかとのお誘いだった。なんでも掲載誌の版元の音楽出版社と美術出版社とは同じビルのなかにあり(冗談みたいな話だ)、営業担当者同士の雑談の際たまたま小生の連載のことが話題になったのだとか。
当時、美術出版社は美術書からデザイン書へと舵を切りつつあり(すでに真っ当な美術書が売れない時代になっていた)、何か目先の変わったヴィジュアル企画を探していた矢先、音楽と美術をデザイン的に架橋する小生の連載に目を留めたという成り行きだったらしい。話はトントン拍子に進み、担当編集者として紹介されたのが美術出版社の
鈴木一男さんだった。
連載を本にするにあたって鈴木さんとの間でしばらく軋轢があった。
掲載するLPジャケットを大幅に増やし、文章に手を入れることでは意見が一致したのだが、彼はデザイン的な観点から外れた数章は除外したほうがいいと主張した。すなわち、バレエ・リュスの章やコクトーの章、更にはディーリアスの最終章などは本に含めるべきでないという意見である。勿論これには小生が強く反発した。どの章にも甲乙つけ難く愛着があって、取捨選択する気にはなれなかったのである。
波乱含みの仕事始めだったが、最初にやりあったあとは不思議にもう対立はなかった。鈴木さんの生真面目で真正直な気質はよくわかったし、彼のほうでも当方の真摯な頑固さを呑みこんだのだろう。鈴木さんは二度とこの件を持ち出さなかったし、当方も彼の提案を受け入れて新たにふたつの章を書き足すことにした。既存の十章に加えて、タイトルの「12インチ」に因んで全部で十二章だてとしたのも正解だった。マニフェスト風の「あとがき」も彼のアイディアである。
400点ものLPジャケットをカラー掲載する書籍の定価を二千五百円に抑えるため、費用の嵩む製版作業を香港に外注したほか、美術出版社は更に奥の手を講じた。
この本をまず雑誌『デザインの現場』別冊として刊行し(たしか一万部)、その売れ残り分を回収したのち、表紙を剥ぎ取って前付部分(冒頭四頁)を差し替え、新たな表紙とカヴァーと前付を付けて単行本に仕立てるという荒技を敢えてした。なので単行本は化粧直しのため天地・小口が削られてサイズが僅かに小さい。明らかにこれは「禁じ手」だが、そうでもしないと本書は書籍として世に出なかったろう。
単行本のカヴァー装丁や帯の惹句については鈴木さんに一任した。中身に散々註文をつけたので、外見は編集者に委ねるべしと考えたのだ。「スーパーエディター」を自称する編集者
・安原顯氏に帯の推薦文を依頼したのも彼の発案である。「選りに選ってヤスケンなんかに…」と心中些か訝しく思ったけれど、彼に私淑しているらしい鈴木さんを慮って、この件に関しては口を噤んだ。
鈴木さんは筋金入りのジャズ・ファンだった。本書の編集作業に先立って彼は1991年に『
ブルーノート アルバム・カヴァー・アート』というLPサイズの立派な「レコジャケ本」の日本語版を刊行した(
→これ)。この本の売れ行きに力づけられたのだろう、ジャズLPジャケット・デザイン集成の決定版というべき独自企画を温めていた彼は、その実現に向けて邁進したのである。
その努力の結実が1993年に出た『
ジャジカル・ムーズ アートワーク・オブ・エクセレント・ジャズ・レーベル』(
→これ)である。「ジャジカル・ムーズ Jazzical Moods」とは響きのよいタイトルを付けたものだ。なんでもチャールズ・ミンガスの古いアルバム・タイトルに由来するとのことだが、いかにも似つかわしく格好のいいネーミングだと感心した。前著がブルーノート・レーベル一色だったのに比べ、こちらはまさに百花繚乱、 50~60年代のモダン・ジャズのアルバム・カヴァー・アートの集大成である。鈴木さんの見識と創意と愛情に満ち溢れた会心の一冊の出現に、心から喝采したものだ。ほんの僅かながら、
アンディ・ウォーホルの手がけたアルバムなど、小生のコレクションもいくつか収載され、少しは恩返しができたことを嬉しく思った。
(三日後へ続く)