一昨日にも引いた『音楽の友』誌1965年7月号の「海外トピックス」の一節を再び書き写そう。
アルゲリヒは自分の私生活に関しては極度に口数が少なく、現在ブリュッセルに住んでいるが、住所は誰にも教えようとしない。入賞後出演の申し出が殺到したが、彼女は言質を与えることをこばんだ。コンクールにおける演奏の自己評価を求められた彼女は『ひどかったわ。特別うまく弾けたとは思いません。もっとうまく弾けるんですけど』と言葉少なに語った。
1965年の第七回ショパン・コンクール優勝者
マルタ・アルヘリッチの許には出演依頼が殺到した、とある。むべなるかな。スタア誕生である。
接触を図ったのは演奏会プロモーターだけではない。大手レコード会社も彼女との専属契約に漕ぎつけようと水面下で躍起になった。
とりわけ英国のEMIは獲得に最も熱心だった。そもそも同社はショパン・コンクールの上位入選者に常に目を光らせ、初録音を行おうと力を尽くしてきた。ウラジーミル・アシュケナージ(1955年度の第二位)、マウリツィオ・ポッリーニ(1960年度の第一位)を相次いでレコード・デビューさせたのはほかならぬEMIの功績である。
1965年6月、というからコンクール優勝のわずか三か月後、アルヘリッチはロンドンの
アビー・ロードのEMIスタジオにいた。
マルタ・アルヘリッチがスタジオに入ってきたとき、私がまず心を打たれたのは感情を滾らせたその暗い眼差しだった。到着するなり、彼女は珈琲を所望した。私が差し出したカップを一気に飲み干すと、もう一杯を求めた。スタジオに腰を据えた彼女の傍に珈琲ポットを置くと、私は調整室に入った。彼女はまず手始めに、ピアノの具合を試すように両手でざっと鍵盤をさらった。そしてショパンの作品53のポロネーズに取りかかった。私は椅子から腰を浮かせて思わず長い嘆声をあげた。「こりゃあ~ たまげた Jee-sus」と。バランス・エンジニアは「うわぁ! Wow!」と声に出した。
アビー・ロードのスタジオを根城に幾多のEMIクラシカル録音を手がけてきた名ディレクター、
スヴィ・ラジ・グラッブの回想である。
もしも彼女の演奏がいつもこの調子なら、アルヘリッチは我々がこれまでに出くわした最も震撼すべき奏者かもしれない。重和音は凄まじく響いたし、その間の繋ぎも清潔だ。見せ場であるトリオでも、難しい左手のオクターヴは均質に奏され、クレッシェンドもしっかり制御されていた。私はスタジオをそっと覗き込み、この音の奔流が本当にピアノのところにいるあの少女の手元から流れ出ているのかを確かめた。全く信じ難いことだ。私はクララ・シューマンがブラームスのパガニーニ変奏曲を評して「残念だけど女性ピアニストの能力を超えている」と語ったという故事をふと思い出して微笑した。この女性だったらどんな音楽も手に余ることはなかろう。
(明日につづく)