20世紀の最後の数年間、遅蒔きながら倫敦に足繁く通った。
季節はたいがい五月末か六月初め。長めの休暇をとり、古本屋通いとコンサート、オペラ、芝居に明け暮れた。あとは公園でのんびり時を過ごす。
日常を忘れるための旅なので美術を意識的に遠ざけた。職業柄、美術館や画廊に一旦足を踏み入れると途端に「お仕事モード」に切り替わってしまい、折角の休暇が台無しになりかねないからだ。
1999年には一箇月近くも滞在した。苦労して準備した「ルノワール展」を成功裏に終えた直後だったので、休みをとっても誰からも文句は来まい。なので心おきなく美術館を留守にし、長期休暇を満喫した。楽しい倫敦、愉快な倫敦。
とはいうものの流石にひと月は長い。後半には些か倦んできた。いくら憂さを晴らす旅とはいえ、少しは美術に触れてもいいかという気持ちが湧いてきた。倫敦は音楽都市、演劇都市であるばかりか、美術の都でもある。噂に聞く
サーチ・コレクションで現代美術を瞥見するのも悪くはないかも知れない。
サーチ・コレクション The Saatchi Collection とは広告代理業で巨万の富を築いたチャールズ・サーチの現代美術コレクション。倫敦市内にある彼の展示スペースは英国現代美術のメッカであり、デイミアン・ハーストらYBA(青年英国美術家)の作品を常設していた。尤も小生の興味はごく限られていて、かつて水戸芸術館の展覧会で震撼させられた
リチャード・ウィルソンの作品(部屋一面に重油を満たしたインスタレーション
→これ)と再会するのが訪問の専らの目的であった。
出かける前にホテルの部屋で『倫敦ぴあ』こと "Time Out" 誌を開いて住所を確認する。98a Boundary Road とある。手許の地図で確認してみると、これまで足を踏み入れたことのない市内北西部、リージェンツ・パークの西にあたる一郭である。どの地下鉄の駅からも離れた不便な場所だ。どこからどう歩こうかと思案していて思わず地図に目が釘づけになった。サーチ・コレクションのある Boundary Road が交叉する道筋に Abbey Road と記されているではないか!
本当にそうなのか。「アビー・ロード」とは即ち「大修道院の道」、「僧院通り」だから、云ってみれば「表参道」か「靖国通り」か、「寺町通」「法善寺横丁」の類いだろう(ちょっと違うか)。倫敦市中でアビーといえばウェストミンスター寺院だが、それにしては随分と場所が離れている。しかもこのアビー・ロードは地図で見る限り大した道ぢゃない。北西から南東にかけて全長一キロあるかなきか。そこに果たして「あの」名だたるスポットがあるのか。これはもう実際に出向いてみるに如くはなかろう。
目的地のバウンダリー・ロードとの交叉点はかなり北寄りなので、まずはアビー・ロードの南東端に赴き、そこからゆるゆると北上してみることにする。左右を見ながら歩けば途中できっとEMIのスタジオに出くわすはずだ。そしてそこには「あの」横断歩道があるに違いない。そう推し量りながら地下鉄に乗った。
降りたのは地下鉄ジュビリー・ラインのセント・ジョンズ・ウッドという駅。初めて来る界隈だ。なんの変哲もない街区に出る。閑静な住宅街といった趣。地図を頼りに歩を進める。幸い空はすっきり晴れてポカポカ陽気。恰好の散歩日和である。
十分間ほど歩いただろうか。不規則な形をしたY字路に出た。この交叉点を急角度で右に折れると、そこから先がアビー・ロードだと地図には記されている。曲がり角を曲がったその途端、不意にデジャ・ヴュに襲われた。
(まだ書きかけ)