倫敦の
アビー・ロード・スタジオが売却されてしまうそうだ。所有主のEMIが危機的な経営難に見舞われた挙句の果ての決断という。
『朝日新聞』から引く。
【ロンドン=土佐茂生】
英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)は16日、ビートルズゆかりの地として知られるロンドン北部の「アビーロード・スタジオ」が売りに出された、と報じた。建物とともにブランド名も売られる可能性があり、価格は数千万ポンドになると予想している。
スタジオを所有していた英レコード大手EMIグループは2007年、経営難に陥って英系投資会社に買収された。FTによると、投資会社による再建も困難をきわめ、資金繰りのためスタジオ売却が決まったという。
EMI は1929年に建物を購入、スタジオにつくりかえた。ビートルズが頻繁に使い、1962~69年に作った曲の9割が録音された。ビートルズ最後のアルバムは「アビーロード」と題され、スタジオ前の横断歩道をメンバー4人が歩くジャケット写真はあまりに有名。観光客が絶えない人気スポットとなっている。
しかしスタジオは使用料が高いため、安価で新しいほかのスタジオに押され気味だった。ううむ。。。これには絶句である。録音スタジオはレコード会社の云わば心臓部。それを人手に渡してしまうというのだから、さしもの名門EMIももう「死に体」である。
アビー・ロードのEMIスタジオは同社創設と同じ1931年にオープンした。オーケストラが丸ごと入って録音できる広壮な最新鋭「第一スタジオ」を擁していた。11月12日のスタジオ開きには
エドワード・エルガー卿が招かれ(
→記念写真)、ロンドン交響楽団を指揮して自作の「希望と栄光の国」を録音した。
なんとその折りの貴重な映像も遺されている(
→これ)。最初にエルガーの挨拶がある。卿はこう云っているのだそうだ。「おはよう諸君。皆にお目にかかれて嬉しい。今朝はぐっと軽い曲で行こう。どうかこれを初めて聴く曲のつもりで演ってくれ給え」。
これは歴史に残る出来事である。その証拠に今もスタジオの建物にはその旨を記した銘版(プラック)が掲げられている(
→これ)。もっと近くまで寄ろうか(
→これ)。
エルガー翁はその後もアビー・ロードのスタジオに足繁く通ってせっせと自作の録音に励んだ。翌1932年の7月15日には十六歳の
イェフディ・メニューインを独奏者に迎えてヴァイオリン協奏曲の録音が行われた(
→その光景)。この記念すべきセッションの終了後、老巨匠と天才少年はスタジオ正面玄関の階段に並んで記念写真を撮影した(
→これ)。エルガーの伝記に必ず載っている有名な写真である。
更に時は流れて1965年12月。すでにビートルズが全盛期を謳歌しアビー・ロードのスタジオを録音の拠点として恒常的に用いていた。四十九歳になったメニューインは満を持してエルガーの協奏曲のステレオ再録音に踏み切る。共演は英国随一の名匠エイドリアン・ボールト卿。
そのLPアルバムのジャケットがなんとも傑作である(
→これ)。1932年と1965年、三十三年の時を隔てて同じアビー・ロードのスタジオの正面階段で撮られた二枚の記念写真が並置される。同じ場所、同じポーズ、同じアングル。かつての天才少年はすでに齢を重ね、隣の老巨匠はいずれも髭を蓄えていて同一人物かと見紛う。
それから更に半世紀近い時が経過した。無数の音楽家が訪れ数多の演奏を紡ぎ出してきた「聖地」は存亡の危機に瀕している。
(2月23日の追伸)
続報に拠れば、EMIはアビー・ロード・スタジオの売却を見合わせることにした由。再び『朝日新聞』を引く。
英紙フィナンシャル・タイムズ(電子版)は、売却問題が浮上していたビートルズゆかりの地の一つであるロンドン北部の「アビーロード・スタジオ」について、売却計画が白紙に戻されたと報じた。スタジオを所有する英レコード大手EMIグループに近い筋の話として伝えた。
同筋は「売却計画の反響があまりに大きく、スタジオがどれだけ大切な資産なのか痛感した」と語り、「売却への扉は閉じられた」と明言したという。(ロンドン)