DIC川村記念美術館の休館の知らせは、小生も三日前(8月27日)の夜になって報道で知り、全く寝耳に水のことでしたから、動転し、狼狽しました。
もちろん、どんな組織や団体も永遠不滅ではありえないのは、不老不死の人間がいないのと同じなのですが、まさか自分自身よりも川村記念美術館のほうが先にこの世から消えてなくなるかもしれないなんて、想像すらしていませんでした。実はこの春、拙宅にうずたかく積もった古書を整理する一環として、小生はマレーヴィチ関連書籍とコーネルに関する文献資料(コーネル装幀本も)を川村に持参し、寄贈してきたばかりなのです。
とりあえず、小生は有志の呼びかけに応じて、「DIC川村記念美術館の移転、閉館に反対します」という署名運動に賛同し、署名とコメントを送りました。こういう運動にどこまで実効性があるのか、小生にもわかりませんが、すでに現時点で署名は一万を超え、今も増え続けています。あなたもぜひどうぞ!
DICという会社はもともと美術館経営に確たるヴィジョンもなく、そのときどきの上層部の浅薄な判断により、バーネット・ニューマン売却(2013年)、日本画コレクションすべて売却(2017年)と、耳を疑うような愚挙を繰り返しては、その都度この美術館を愛する人々を悲しませ嘆かせてきましたから、今回の美術館閉鎖という事態も、その規定路線の延長上にあるものだと理解できるでしょう。もともとそういう愚かしい会社なのです。
これほど不甲斐ないカンパニーの一部門でありながら、これまで川村は三十四年間もよく持ちこたえてきたものです。あの充実したコレクション、高水準の展覧会、卓越した展示手法、丹精こめて守り育まれた庭園の自然、眺めのいい茶室、美味しいレストランや感じのいいショップなど、この美術館のホスピタリティはあらゆる面で超一級、総合点で日本一だと断言できるでしょう。
これこそ、今まさに美術館に在籍されて業務にあたっている従業員の皆さんの日々のたゆまぬ努力の賜物にほかなりません。会社は愚かでも、現場は頑張っている。つくづくそう思います。
報道によりますと、千葉県知事や佐倉市長もそれぞれ疑念や危機感を表明し、なんらかのアクションを起こすとのこと。それがDICの判断を変える力になるのかどうか予断を許しませんが、とりあえず今後の動向を注視しようと思います。
来たる9月13日(金)には川村「最後の」展覧会「西川勝人 静寂の響き」展のオープニング(内覧会)があります(受付11時、開会式11時半)ので、小生は必ず出席し、ここで出逢った方々といろいろ情報を共有したいと願っています。可能ならぜひお越しください。
また事態が動いたら、ご連絡します。
川村がなくなってしまうなんて、耐えられない。
僕にとっては全世界が終わってしまうのに近いことです。
以上はかつてこの美術館で同僚だった少し年長の友人からつい先ほど届いたメールに、小生が急ぎしたためた返信である。
昨日の第一報に接したとき、あまりにも衝撃が大きくて、思わず言葉を失ってしまった。DIC川村記念美術館が休館になる。僕にとっては古巣にして心の拠り所でもあり、それが消滅してしまうなんて、世界が終わるのに近い。
今日からちょうど半世紀前の1974年8月25日、吹きすさぶ嵐をものともせず、TBSアナウンサー林美雄の呼びかけに応じて、三百名を超える番組リスナーの若者が代々木公園に参集した。今なお語り継がれる第一回「サマークリスマス」である。
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その日は朝から雲行きが怪しかった。中国大陸にいったん上陸した台風14号がなぜか引き返して日本列島へと針路を定め、東海地方に接近しつつあった。その影響で関東一帯はどんより厚い雲で覆われ、湿った不穏な南風も吹き始めていた。
集合時刻は午後一時だったか、二時だったか。原宿駅前に降り立つと、空模様はいよいよ険悪になっている。今にも雨が降りだしそうな気配だし、気紛れな突風が巻き起こっては街路樹を揺さぶる。駅前の雑踏をすり抜け、足早に目的地の代々木公園へと急ぐ。
「どうしてクリスマスは冬にしかないんだ、夏にあってもいいじゃないか!」――こんな屁理屈とも身勝手ともつかない言い分から「サマークリスマス」なる催しを提唱したのは、TBSアナウンサーの林美雄さんである。自分の誕生日がたまたま8月25日なので、みんなに祝ってもらいたいという、いささか虫のいい主張がその発端だった。
もはや記憶がおぼろげなのだが、林さんが番組でサマークリスマスを口にしたのは1974年になってからではないか。ふざけたニュースを大真面目に読み上げる「苦労多かるローカルニュース」のコーナーに届いた投書がきっかけだったと思う。ヒョウタンから駒というか、嘘から出たまことというか、いったん弾みがついたらもうとまらない。ことはトントン拍子に進み、いつしか「第一回サマークリスマス」を催す手筈が整ってしまった。
そうした気運に拍車をかけたのが、「パックインミュージック」第二部への突然の打ち切り通告である。四年間も手塩にかけた「ミドリブタ・パック」終了により、林さんは手足をもがれるような痛みと喪失感を覚えたはずだが、その一方で「サマークリスマス」熱をいっそうかきたてられたとおぼしい。どうせ最初で最後だ、やりたいようにやらせてもらおう、三十一歳の誕生日をリスナーと一緒に祝うのだ――それはもうヤケッパチに近い心境だったと想像される。
開催場所に代々木公園が選ばれた理由はわからないが、とにかく当日ここにこぞって参集する。石川セリ、荒井由実、中川梨絵ら、番組のマドンナたちにも声をかける。何をするのかといえば、せいぜい「手つなぎ鬼」か「水雷艦長」。童心に帰って無邪気に遊べばいい。「第一回サマークリスマス」、または「代々木公園にみんなで集まって何もしない会」にぜひご参加を――番組で誇らかにそう呼びかける林さんの声が、今も耳の底でこだましている。
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集合場所はたしか正門からずっと奥へ進んだ芝生広場の「あずまや」付近だった。すでに大勢の若者がたむろしている。といっても、同じ深夜ラジオを聴いているだけで互いに面識はないので、荒天の下でおし黙って佇むばかり。なんとも異様な集団にみえただろう。
ほどなく顔見知りの「パ聴連」数名と遭遇した。ニ週間前の8月12日、千駄ヶ谷区民会館の集会で知り合ったばかりの仲間たちである。しばらく待つうちに参加者は三百人以上にまで膨れ上がった。ざっと見渡すと男性が七割といったところか。
開始時刻が近づくにつれ、風はますます激しく、立っているのが苦しいほどだ。横なぐりの雨も降り始めたが、傘を開くことができない。少々の雨ならそのまま決行という話だったのだが、台風接近がすべてをぶち壊しにしてしまった。中止もやむなし、誰もがそう観念した。
やがて林さんが進み出て声を張り上げた。「この天候ではここでの開催はとても無理と判断した。代わりにTBSのスタジオを用意したので、申し訳ないが赤坂まで移動してもらいたい」――風音にかき消されがちだったが、そんな内容だったと思う。
関係者は裏で目まぐるしく動き回ったに違いない。数百人が収容できる代替スペースはないものか――代々木公園とTBSの間で何度も電話が交わされたはずだ。携帯など存在しない時代の話である。吹き荒れる嵐のなか、公衆電話まで走って窮状を訴えたのだろう。たまたまその日が日曜日だったためか、林さんの「顔」が利いたのか、幸運にも空きスタジオが借りられたのである。
こうして暴風雨のなかの「民族大移動」が開始された。
代々木公園からTBSまでは大した距離ではない。ニ年前の1972年に開通した営団地下鉄・千代田線で、明治神宮前から赤坂までわずか三駅なのだ。揃いも揃って風体の怪しい数百人の若者が公園から駅前までぞろぞろ行進し、地下鉄へと吸い込まれていく。にわかに満員になった車両の先客たちは何事かと驚いただろう。
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あの日からきっかり五十年後の2024年8月25日。僕らは再び代々木公園の芝生広場に今も残る「あずまや」に参集した。お互いの元気な姿を確認した七名の男女は、参宮橋側の裏門から出て、半時間ほど愉しく散策。代々木駅からほど近い居酒屋の集合体「ほぼ新宿のれん街」で旧交を温めつつ乾杯。ああ、仲間って素晴らしい!
いささか旧聞に属するが、去る6月8日に絵本学会から第5回「日本絵本研究賞」を授かった。受賞対象は白百合女子大学児童文化研究センターの研究論文集(第26号、2023年3月刊)に載った「光吉夏弥旧蔵のロシア絵本について」という拙論である。光吉夏弥(1904–1989)は欧米の絵本・児童文学の翻訳紹介に努めた人物で、戦後ほどなく石井桃子とともに絵本シリーズ「岩波の子どもの本」の刊行に尽力した功績で名高い。『みんなの世界』『ひとまねこざる』『はなのすきなうし』など、光吉が邦訳・編集した絵本は七十年後の今も現役で愛読されている。
その光吉が戦前に蒐集した1920~30年代のロシア絵本(全六十一冊/白百合女子大学児童文化研究センター蔵)を悉皆調査し、それらの入手経路や蒐集意図を考察したのがささやかな拙論なのだが、地味なうえにも地味な内容であるうえ、重箱の隅をつつくような研究スタイルに終始し、自分でそう言うのもなんだが、三年に一度の晴れがましい大賞に値するほどの成果とは思えなかった。まして小生はいかなる組織にも属さない在野の研究者。絵本学会の会員ですらないのだ。だから、いきなり「日本絵本研究賞」と告げられても当惑した。授賞式に出席し賞状を頂戴しても、なかなか実感が湧かなかった。褒められることに慣れていないのである。
このほどニューズレター『絵本学会NEWS No. 79』がウェブ上に公開され、そこでは「第5回日本絵本研究賞選考結果報告」として、五人の専門家からなる選考委員が六点の候補論文をじっくり読み比べたうえで受賞作を選んだ経緯が詳しく綴られていた。選考委員長の松本猛氏の「総評」から該当箇所を引かせてもらおう。
第5回絵本研究賞本賞の「光吉夏弥旧蔵のロシア絵本について」は、各選考委員から高い評価が寄せられた。
沼辺氏の論文は「岩波の子どもの本」創刊に重要な役割を果たした光吉夏弥のロシア絵本コレクションについて考察したものである。歴史的背景をしっかり把握したうえで、一冊ずつ出版年と持ち主の署名を調べるなど、緻密な調査に基づき入手先を推定し、光吉のロシア絵本に対する認識の深さを明らかにした。新たな知見がある労作である。1920年代ロシア絵本の評価についても優れた洞察があり、また、「岩波の子どもの本」になぜロシア絵本がほとんど入らなかったかについての考察も優れたものである。
現代の日本の絵本の出発点に大きな役割を果たした光吉夏弥の絵本観を知るうえで貴重な研究論文だった。
そうだったか。そこまで丁寧に読み込まれたうえで拙論を選出して下さったとは望外の喜びであり、これに優る栄誉はあるまい。まさしく研究者冥利に尽きる、そう確信できた。こつこつ好きな道を究めていると、思いがけずご褒美が貰えるものだ。
疲れたら眠りなさい
わたしが歌をうたってあげる
あなたが森と思っているものは
死んだ人たちの爪の跡
あなたが風と思っているものは
緑魔子が歌う「やさしいにっぽん人」がスピーカーから流れ出し、やがて終わった。
一九七四年八月九日午前五時、短い夏の夜が明けようとしていた。
東京大学文学部で西洋美術史を専攻する沼辺信一はラジオの電源を切り、昨日届いたばかりの封筒を再び手に取った。
中身は手書きの簡易印刷の文書が一枚。「ミドリブタニュース」という奇妙なタイトルがつけられていた。
《林美雄さんがパックをやめるそうです。実をいうとパックインミュージック2部のほとんどが変わるらしいのです。どうやら歌謡曲の番組(某放送局の「走れ—―」のような)になるようです。
そこで私達は考えました。
何とかして林さんに放送を続けてもらうためにはどうすればいいのか? 一人で考えるよりも二人で三人でと一しょに考える仲間が出来、林さんに放送を続けてもらうための会を結成しました。
その会の名称は「パック 林美雄をやめさせるな! 聴取者連合」です。
日本映画復興を云われている今日ですが、今ここで林さんの放送をつぶしてしまうようでは、この上向きになってきた日本映画の現状は、決して楽観できるものではないと思うのです。》
林パックのような破天荒な番組が存在できたのは、午前三時から始まる「パックインミュージック」二部にスポンサーがついていなかったことが大きい。資本主義の論理が及ぶことなく、林美雄のセンスと趣味嗜好だけが支配する王国、もしくは無法地帯。それこそが林パックだった。
だがいま、素晴らしい林パックは、正に資本主義によって消滅の危機に瀕していた。
文化放送の「走れ!歌謡曲」を提供する日野自動車に対抗すべく、いすゞ自動車はTBSラジオ平日深夜三時から五時までの時間帯を丸ごと買い取ることに決めた。
これまで一銭も入らなかった深夜遅くの時間帯をお買い上げいただけるのだ。TBSラジオは大喜びでタクシーや長距離トラック運転手向けの深夜番組「歌うヘッドライト」を作ることに決めた。ドライバーの皆様に聴いていただく以上、パーソナリティは女性でなければならず、紹介される曲は歌謡曲でなくてはならない。
かくして「パックインミュージック」二部の消滅が決まった。広告収入で成り立つ商業放送局としては当然の対応だろう。
林美雄のリスナーの大部分を占める大学生および高校生たちにも、その程度の理屈はわかっている。
だが、彼らは無理を承知で、TBSに林パックの存続を求める抗議行動を始めた。TBSが自分たちの要求を容れる可能性は低いが、やれる限りのことはやるべきではないのか。大人の理屈を容認するには、彼らは林パックをあまりにも愛しすぎていた。
パック二部の消滅を林美雄自身が告げて以来、鬱々とする沼辺の元に、まもなく「ミドリブタニュース」が届いた。
一読して感激した。
巨大メディアであるTBSの判断を覆し、自分たちの愛する林パックを存続させようとする気骨ある若者たちがいたのだ。
差出人欄にある "東京都青梅市東青梅 中世【なかせ】正之" という住所と名前には見覚えがあった。林パックのファン有志による簡易印刷のミニコミ「あっ!下落合新報」を送ってもらっていたからだ。これまでに二号が届き、沼辺は次を楽しみにしていた。
しかし第三号が発行されることはついになく、代わりに送られてきたのが「パック 林美雄をやめさせるな! 聴取者連合」通称パ聴連の結成を知らせる「ミドリブタニュース」だった。
偶然にも届いたのが木曜日で、深夜には林パックが放送された。
番組が朝五時の終了時刻に近づき、緑魔子の「やさしいにっぽん人」を聴くうちに、沼辺の頭の中にひとつの考えが浮かんだ。
「そうだ、今からこの中世正之という人に会いに行こう」
約束はしていないが、中世が林パックを聴いていないはずがない。だとすれば、これから布団に潜り込んで眠るに決まっている。すなわち、必ず在宅しているはずなのだ。寝ているところを起こすのは悪いが、我慢してもらおう。
簡単に身支度を整え、父母を起こさないよう、静かに玄関のドアを開けて外に出た。空は刻々と明るさを増している。今日も暑くなるだろう。
――柳澤 健『1974年のサマークリスマス』第一章 夜明け前に見る夢 集英社、2016 ※引用は集英社文庫版(2021)による。