11月11日(土)に早稲田大学「桑野塾」でロシア絵本についてレクチャーを催すことになり、概要が決まりましたので、速報でお知らせします。小生が人前でこのテーマでお話しするのはたぶんこれが最後の機会となりそうです。どうか、万障お繰り合わせのうえお運びください。なお、聴講に事前の予約は不要。当日は自由にご参加ください。なお、対面レクチャーのみで、配信はありません。桑野塾 第77回
2023年11月11日(土) 午後3時~6時
早稲田大学戸山キャンパス33号館 231教室⇒ 戸山キャンパス地図 「大竹博吉・せい夫妻とナウカ社――すべてはここから始まった」
◉『大竹博吉、大竹せい 著作・翻訳目録』を刊行して/宮本立江
◉ロシア絵本をわが国にもたらした大竹夫妻 その情熱と使命感/沼辺信一
大竹博吉(1890–1958)と大竹せい(1891–1971)は1932年に神田神保町で「ナウカ社」の営業を開始、日本初のソ連からの輸入による書籍販売と出版活動に携わったほか、ともにジャーナリスト、文筆家・翻訳家として、多方面の活動を通じ、日露文化交流に大きな足跡を残しています。今回の「桑野塾」では、多年の調査を経てこのほど刊行された資料集『大竹博吉、大竹せい 著作・翻訳目録』の編者の一人である宮本氏が、大竹夫妻の仕事の多彩な広がりについて概説します。
後半では巡回展「幻のロシア絵本 1920–30年代」(2004~05)を構成・監修した沼辺氏が、戦前の日本にロシア絵本が浸透するうえで大竹夫妻が果たした決定的な役割について、原弘、柳瀬正夢、松山文雄らが秘蔵した絵本の調査を踏まえ、豊富な実例を挙げながら詳しく紹介します。
●宮本 立江(みやもと たちえ):
「桑野塾」世話人。1965年からナウカ株式会社に勤務、同社の季刊誌『窓』ほかの編集にも携わった。退職後はナウカ社の歴史を調査し、資料集『大竹博吉、大竹せい 著作・翻訳目録 附・関連文献一覧』(2023)を村野克明氏と編集、今年7月に刊行した。
●沼辺 信一(ぬまべ しんいち):
編集者・研究家。1952年生。ロシア絵本の世界的な伝播、日本人とバレエ・リュス、プロコフィエフの日本滞在など、越境する20世紀芸術史を探索。桑野塾登場はこれが七回目。
お知らせするのが少し遅くなってしまったが、小生が2022年3月26日に白百合女子大学で催したレクチャーを元に再構成した論考「光吉夏弥旧蔵のロシア絵本について」とその附録「光吉夏弥旧蔵ロシア絵本リスト」(『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集』26 [2023年3月刊行]所収)がこのほどネット上に公開され、全く同一の紙面構成のまま、いつでもどなたでも読むことが可能になった。下のリンク先からpdfファイルをダウンロードできる。併せてその要旨をご紹介しておく。ご興味をおもちの方はぜひご一読ください。
――1940年代から80年代まで、わが国の絵本・児童文学界を牽引した重要な翻訳家・研究者の光吉夏弥(1904~1989)は、ごく早い時期に1920・30年代のロシア絵本に注目し、数多くの実例を蒐集した。本論考では、白百合女子大学児童文化研究センターに残る光吉旧蔵ロシア絵本61点を紹介・分析するとともに、光吉が1943年に著した優れた論考「絵本の世界」におけるロシア絵本についての記述を参照し、彼が当時それらの絵本をどのように理解していたかを考察する。
アナトリー・ウゴルスキー(Anatol Ugorski/ Анатолий Угорский)の訃報に接して、深く悲嘆に暮れている。近年は録音も途絶え、動静が伝えられなくなったとはいえ、享年八十はやはり早すぎる。彼もまたソ連時代に塗炭の苦しみを味わった音楽家のひとりだが、幸いにも西側に亡命してから、その独創的な解釈により天分を余すところなく発揮する機会を得た。旅先で全くの偶然から遭遇した彼の驚くべきピアノ演奏について記した旧文を再掲して、その死を心から悼もう。
❖❖❖
アナトリー・ウゴルスキーの《展覧会の絵》との出逢いは全くの偶然からだ。それは異国の街での奇蹟的な遭遇だった。
1996年11月28日、小生はミュンヘンのヘルクレスザールの客席にいた。幾多の歴史的名演の舞台となった、あの由緒ある演奏会場である。ルノワール展の出品交渉のため米国の四都市を日替わりで旅したあと、慌ただしいパリ滞在を経て最後の目的地ミュンヘンに辿り着いた我々は、すでに疲労困憊の極にあった。
遠来の客人をもてなそうと、同地の協力者がわざわざ気を利かせて切符を手配してくれた心尽くしの演奏会だというのに、同行の面々は席に着くや舟を漕ぎだし、正体もなく眠りこけてしまった。小生とて同じこと。できれば一刻も早くホテルの部屋で横になりたかった。
客電が落とされ、足早に登場したのは額が禿げ上がった「中年のお茶の水博士」といった飄然たる風貌のピアニスト。名前からロシア人だろうと察するだけで、無知蒙昧な小生は初めてその名前を目にした体たらくだった。だから予備知識も期待感も抱かぬまま、いきなりリサイタルは始まった。
バッハ=ブラームスの《シャコンヌ》に否応なく惹き込まれる。有名なバッハのシャコンヌをブラームスが左手用に編曲したものだ。凄い集中力と訴求力。それでいてクールな客観性も備えていて、なんの根拠もないまま、「このロシア人はひょっとしてグレン・グールドを生で聴いたことがあるのではないか?」と直覚した(後日そのとおりだと判明)。
この一曲で「このピアニストは只者ではないぞ」と、それまでの眠気が一挙に吹き飛んで小生は覚醒した。総毛立つ思いで、席から身を乗り出すように聴き入った。
❖
この晩のプログラムの最後が《展覧会の絵》だった。
冒頭の「プロムナード」からして独創的だ。凡百のピアニストが高らかに、意気揚々と歩み出すのとはまるで対照的に、ウゴルスキーの足取りはどこかしら覚束なく、物思いに耽りつつ、うつむき加減でためらいがちに歩むといった風情である。
あゝと溜息が出た。そうなのだ、作曲家は今、追悼の思いを胸に、親友の遺作展の会場で緩やかに粛然と歩を進めている。その足取りが颯爽と晴れやかなはずはないのだ!
それからの半時間は、間違いなく、わが生涯の音楽体験のハイライトである。どの曲もじっくり考え抜かれて弾かれ、外面的な効果を狙った浅薄な瞬間など微塵もない。
ウゴルスキーはとことん知り抜いていた——親友の建築家ヴィクトル・ガルトマンの遺作展に触発されたムソルグスキーの組曲は、その端緒と本質において「喪の音楽」だということ、そして(これが肝腎なのだが)彼が作曲したのは、そこに並ぶ絵画(タブローでなく、いずれも小さな素描や水彩スケッチ)を音に写し取った「描写音楽」では全然なく、ガルトマン作品に触発された彼自身の内なる映像=音像を忠実に映した音楽なのだ、というまっとうな見識である。
だから煌びやかで名技主義的=外面的な描写はことごとく禁欲的に排され、演奏はひたすらムソルグスキーの内面に肉薄しようとする。ウゴルスキーが奏でるのは、作曲家の内なる眼に映じた《展覧会の絵》なのだ。
その最終楽章「キエフの大門」こそウゴルスキーの独創的解釈の白眉であり精華である。
直前の「バーバ・ヤガーの小屋」の禍々しい狂騒からアタッカで続けて威風堂々と荘厳に、と思いきや、消え入るような弱音で開始される「キエフの大門」に驚かぬ者はいないだろう。これは一体全体どういうわけだ?
小生はすぐさま直覚した。あゝ、これこそ遺作展でムソルグスキーが対面したガルトマンの素描 "Каменныя городскія ворота въ Кіевѣ въ русскомъ стилѣ" の第一印象に相違ないのだ、と。
ムソルグスキーが目にしたのは、古都に聳え立つ石造りの巨大な記念門そのものではなかった。紙上に描かれた構想デザイン——出品作中ではやや大きめだが、所詮は 60.8 × 42.9 cm の紙片——小さな雛形案でしかない。構想の雄大さにひき較べ、拍子抜けするほどちっぽけな、ミニアチュールと呼びたくなる小品なのだ。
しかも大門建設プロジェクト自体ほどなく頓挫し、建築家が精魂込めた気宇壮大な設計案は実現せず、あえなく幻と消えた。ああ、なんと可哀想なガルトマン・・・。
小さな紙上のささやかな設計案が、作曲家の想念のなかで三次元の伽藍としてむくむく膨れ上がり、やがて聳え立つ荘厳なアーチとなって姿を現す——ウゴルスキーは「キエフの大門」をそのような音楽として解釈し、作曲家の内面のドラマを生々しく追体験させてくれる。
冒頭の微弱な響きはすなわちガルトマン作品の小ささの謂いであり、秘めやかな提示部から神々しい光を放つ壮麗なコーダへと至る息づまる展開は、作品を前にした人間が味わう印象の変容の過程なのだ。
ムソルグスキーの魂が沸き立つ瞬間をありありと捉えた、世にも稀な演奏。まさしく「心の音楽」そのものだ。これに優る《展覧会の絵》が他にあろうとは想像もできない。
繰り返して言う。ムソルグスキーの《展覧会の絵》は目で見た絵画を音に置き換えた描写音楽では断じてない。作曲家自身がやむにやまれぬ思いを吐露した「精神の所産」なのだ——そう断じたくなるほど、どこまでも深く沈潜し、高く飛翔する内面のドラマをウゴルスキーは奏でている。そのことに感動を禁じ得ないのである。
https://www.youtube.com/watch?v=NyNWnn0_ZNc&list=PLs2vq238vU6kXzOb6LD0Svz83zw1o88uD
残暑とは名ばかりで、陽光が容赦なく照りつけるなか、はるばる川越市立美術館まで出向いてきた。今週で終わってしまう展覧会「杉浦非水の大切なもの」をどうしても見たくなって、JRと地下鉄と東武電車と路線バスを乗り継いで、灼熱のなか片道二時間半の小旅行に挑んだのだ。
杉浦非水の展覧会をなぜ川越で?と訝しがる向きもあろうが、非水夫人・翠子は旧姓を岩崎といい、川越の旧家の出だった縁から、第二次大戦で迫りくる空襲を避けるべく、膨大な非水作品がトランクに詰められて川越の岩崎家に送られ、辛うじて難を逃れたという秘められた過去があった。それら千余点の作品が数年前に川越の同家で忽然と出現したのだ。展覧会の副題「初公開・知られざる戦争疎開資料」がそのあたりの事情を明かしていよう。
そんなわけで、この展覧会に並ぶ三百数十点は悉く初公開、しかもすべて非水自身が大切に手元に置き、守り抜いてきた遺愛の品々なのだ――そう思って眺めると、これまで見馴れた三越の宣伝雑誌や東京地下鉄のポスターの数々も、有難味がだんぜん違ってくる気がする。
最も瞠目したのは、非水が心血を注いだ植物写生画集『非水百花譜』(1920–22年初版、1929–34年再版)のための直筆水彩画が七十一枚もまとまって発見されたことだ。百年の時を経ながら保存状態も良好で、これらが後世に伝えられた僥倖を、おそらく誰よりも非水自身が喜ぶに違いない。
非水の回顧展といえば東京で、愛媛で、宇都宮で、繰り返し目にしてきたが、このたびの川越市立美術館の展覧会はそのどれをも凌駕する出来映えである。非水の「自選展」でもあるという有利な側面を別にしても、発見から数年を費やした作品の悉皆調査の成果を存分に踏まえた、多くの新知見を伴う刺激的な展示である。少しばかり遠いからといって、これを見逃すと後々悔いを残すことになろう。カタログの論考も読みごたえが充分。担当された折井貴恵さんの労を多としたい。
リハビリを兼ねて拙宅に最も近い美術館まで出向いた。京葉線「千葉みなと」駅から徒歩数分、海辺の広々した公園の一郭に立地する千葉県立美術館である。
県庁所在地の例に洩れず、千葉市にはもうひとつ千葉市美術館もあり、こちらが日本版画と現代美術の優れたコレクションを擁し、意欲的な展覧会を次々に開催して人気を呼んでいるのに対し、もともと老舗だったはずの千葉県立美術館は、蒐集でも企画でも著しく遅れをとり、これといった話題性を欠いたまま、時流から取り残された地味な存在に甘んじている。
本年は明治初年に千葉県が誕生して百五十周年にあたるところから、ここ県立美術館では「描かれた房総」なる展覧会を催している。千葉の海浜風景を中心に、房総を題材とする絵画が四十点あまり並ぶ。館蔵コレクションのみの小ぢんまりした展示ながら、普段なかなか観る機会のない水彩・素描作品も含まれており、千葉県民としては見過ごせない内容である。
⇒館長トークのお知らせ貝塚館長は展示作品のなかから、ジョルジュ・ビゴーの《稲毛の夕焼け》(1890年代)と浅井忠の《漁婦》(1897)の二枚の油彩画に話を絞り、房総半島がその風光明媚な景観と、東京からほど近い至便な立地とから別荘地・保養地として栄え、明治時代からしばしば画家たちの滞在先となった経緯を手際よく語られた。ビゴーは稲毛の浜(千葉市稲毛区)の風物を愛して居を構え、浅井忠は冬の外房・根本海岸(南房総市)に滞在し、漁から帰路に就く漁婦たちを間近に活写している。
館長トークでは配布した参考図版を参照しながら、ビゴーが居住した当時の稲毛海岸の様子を解き明かし、画家の制作意図を推察する。ビゴーはフランス留学から戻った黒田清輝と個人的な親交があり、その黒田もまた外房の大原(いすみ市)に滞在し、海浜風景を描いて1897年の「白馬会」展で展示された由。
本展に並んだ浅井忠の《漁婦》も同じ1897年の作であり、こちらは同年の「明治美術会」展に出品された。房総の風物はこの時代の多くの画家たちが競い合うように好んで描いた画題であり、こうした積み重ねの先に、青木繁は1904年の夏、布良(館山市)に長逗留して傑作《海の幸》を描く。
すべての出来事は網の目のように絡み合い、「房総絵画」の系譜を紡ぎだしている。貝塚館長のトークは流暢な語り口で、絵画史を繙くことの醍醐味を実感させ、一時間のトークは瞬く間に思われた。さすがである。
【この館長トークは8月27日(日)13:30~、9月15日(金)18:00~にも予定されている。】