う~む、よくぞ思いついたものだ。このプログラム、間然としたところが全くない。このまま一夜の演奏会になる。
フルート、ヴィオラ、&ハープという編成には音楽史にほとんど前例がなく、最晩年のドビュッシーがどこからこのユニークなトリオ・ソナタを発想したのかはわからない。このとき彼が迫り来る死を予感していたのは間違いないが、ペシミスティックなところは微塵もなく、透明な旋律、明快なフォルム、澄み切った佇まいが最後にドビュッシーの辿り着いた境地を物語る。もはや「うつせみ」――すなわち現世の人でないかのごとく。
不思議なことに、このドビュッシーのソナタは、直後ではなく、数十年の時を隔てて後継の楽曲を得た。二十世紀も終わりに近づく頃、明らかにこれを淵源とし、敬意と憧れの気持ちをこめ、楽器編成もそのままに受け継ぐ楽曲が、まるで申し合わせたように英・日・ベルギーで生まれている。
ドビュッシーのフルート独奏曲《シュリンクス(シランクス)》がひっそり終わると、そのまま同じ主題が今度はフルート、ヴィオラ、ハープの三重奏で奏されるのに吃驚する。これがリチャード・ロドニー・ベネットの《シュリンクスによるソナタ》(1985)の冒頭なのである。なんとも面白い趣向である。よくぞ思いついたものだなあ!
英国のナッシュ・アンサンブルのために書かれ、翌86年にウィグモア・ホールで初演された由。いたって穏健な作風ながら、巧みにドビュッシーの衣鉢を継いだ作品といえようか。いつか生演奏で耳にしたいものだ。
武満の《そして、それが風であることを知った And then I knew 'twas wind》はこれに遅れること七年、1992年に小尾旭(ミリオンコンサート協会の主宰者)の依頼で書かれ、オーレル・ニコレ、今井信子、吉野直子によって初演された。言うまでもなかろうが、標題はエミリー・ディッキンソンの詩句 "Like rain it sounded till it curved/ And then I knew ‘twas wind" に基づく。
この曲を初めて耳にしたとき、その音楽の甘美なまでの柔和さ、ドビュッシーへの帰依のあまりの直截さに、ちょっと吃驚したものだ。まろやかさ、親しみやすさという点で、リチャード・ロドニー・ベネット作品とほとんど甲乙つけがたい。現代音楽がこんなに美しくていいのか、聴いていてちょっと不安になってくるほどだ。
そしてそのあと本家本元たるドビュッシーの《フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ》を聴くと、なんというか、音楽の格が一段上だという気がする。あくまでも気高く透明で、余分な企みが一切ない、末期の目で見渡すような澄み切った境地に深く打たれる。
本アルバムではさらに加えて、ベルギーの作曲家ブノワ・メルニエ Benoît Mernier(1964~ )の《映像 Images》(2002)がしんがりを締めくくる。ドビュッシーのソナタと同編成に拠りながらも、この作品は各楽器の奏法に技巧を凝らす(特にヴィオラ)ことで新機軸を打ち出そうとするが、これが必ずしも功を奏していないところに、この編成で新作を書く難しさがあるのだろう。
《ドビュッシーの領分》という心憎いタイトルも含め、よく考えられ、練り上げられた素敵なアルバム。三人の奏者も飛び抜けた名手ではないかもしれないが、堅実な好演を披歴している。