昨日、世田谷文学館に展示されていた一通の手紙に目が釘づけになった。パリの堀内誠一に宛てた長文の便りである。その冒頭を書き写してきた。
莉莎子さんから、帰国ただちに André Hellé 挿絵楽譜を手渡していただいて、その本が私のかつて見た Debussy の本にまちがいなく、改めて Hellé の美しさにサンタンして、心からうれしく思いました。手書きの文字もデザインもエレのものでしょうが、Personnages からはじまる人形ぶりの挿絵のかわいさは、ニクイようですね。二幕さいごの兵隊と娘の action なども、味がありますね。お手紙が今日ついて(10月18日消印の航空郵便が12月8日に着きましたが、まだいい方で、私などは一度出してダメで、いま12月8日に書い [ママ]
直している始末です)この絵本譜が私の手許に来たわけを知りました。路子さんのフランスでの最初の成果(といっていいかどうか)をいただいて、感謝に堪えません。Debussy の ballet は1919年初演で、㐧1次大戦の影響がこのような形でも、残されたことにも感ガイを覚えます。[以下略]
──瀬田貞二より堀内誠一への書簡、1974年12月12日消印
文中の「莉莎子さん」とは児童文学翻訳家の内田莉莎子のこと。堀内の妻・路子の実の姉にあたる。
1974年初めからパリに滞在していた堀内はいよいよ定住を決断し、呼び寄せた家族とともに八月からパリ郊外のアントニーに居を構える。
文面から察するに、フランスに着いた路子はさっそくパリで「掘出物」をしたらしく、とっておきのその一冊を帰国する姉・莉莎子に託する。おそらくは「これをぜひ瀬田さんに渡してほしい」という堀内の伝言つきで。こうして「その一冊」は内田莉莎子から瀬田貞二へと手渡された。ただし、なんの説明もなかったらしく、とんと事情が呑み込めない瀬田のもとに、ようやく堀内から航空便(おそらく絵入りのアエログラム)が届いたのが12月8日。それを読んでやっと合点がいった瀬田がアントニーの堀内宛てに浦和からしたためた礼状がこれというわけである。
ここで話題になっている「挿絵楽譜」とはアンドレ・エレ原案・クロード・ドビュッシー作曲のバレエ『
玩具箱 La Boîte à Joujoux』のピアノ譜のことである。大判横長の楽譜の随所にエレの愛らしい挿絵が配され、手書き文字でバレエの粗筋が綴られる。楽譜というよりもむしろ絵本、瀬田の言葉を借りるならば「絵本譜」と呼ぶに相応しいチャーミングな一冊なのである(
→これ)。
楽譜の奥付には「1913年」の年号が明記されるが、これは音楽の完成年を表し、実際にこの絵入り楽譜がデュラン社から刊行されたのは、バレエ上演の年、1919年のことだった由。ドビュッシー自身はその舞台上演はおろか、この愛らしい譜面すら目にすることが叶わなかった。癌に冒された作曲家は惜しくもその前年に世を去っていたのである。
堀内は慌ただしい雑誌制作の現場から離れ、絵本の創作に主力を注ぐ心づもりで渡仏したという。その堀内夫妻の最初の「掘出物」がアンドレ・エレの挿絵楽譜だったというのも感慨深い。当代きっての絵本の目利きだった瀬田貞二は、むろんエレの仕事にも早くから着目していたに違いない。「私のかつて見た Debussy の本」とあるのはその証であろう。ただし、エレの絵本はわが国では滅多に目にする機会がなく、フランス本国においても第二次大戦後あらかた絶版になり、時折デュラン社が増刷するこのドビュッシーの『玩具箱』は比較的入手しやすい唯一のアイテムだった。瀬田がどれほどの感動とともにこの絵本譜と再会したか。手紙の文面からは興奮を抑えきれない様子が痛いほどに伝わってくる。
堀内夫妻はこのあともパリの古本屋でアンドレ・エレの絵本を続々と発掘した。
その成果の一端は福音館の月刊誌『子どもの館』の表紙絵と解説(1975年八月号、77年八月号)でまず紹介され、やがて1984年に大著『絵本の世界 110人のイラストレーター』上巻で誇りかに披露された。そして翌85年、堀内は自らプロデュースする形で、エレの最高傑作と目される絵本『ノアのはこぶね L'Arche de Noé』の日本語版を世に問うた。(フランス語が不得手だったはずの)堀内本人が邦訳まで手掛けているところに、その愛着の深さがみてとれよう。
ドビュッシー=エレの『玩具箱』を手にしてから僅か五年、瀬田貞二は1979年に世を去ってしまい、堀内版『ノアのはこぶね』を目にすることができなかった。そしてこの翻訳絵本が世に出た二年後、堀内自身も呆気なく早世してしまった。命を奪ったのは奇しくもドビュッシーと同じ業病、癌であった。