金田一京助という名を目にして、ああ、あの人と思い当たるような御仁はもう多くないかもしれない。
金田一耕助だったらよく知ってるけど…という声がほうぼうから飛んできそうだが、そもそもこの私立探偵の姓名はかつては広く世に知られていたに違いない言語学者に由来するものらしい。
昔話で恐縮なのだが、小生が大学を辞して風来坊だった1970年代の中頃、初めて長期アルバイトとして在籍した神保町の編集プロダクションがたしか三省堂の流れを汲む会社で、そこの先輩編集者から金田一京助、新村出(しんむらいずる)のふたつの碩学の名をさんざん聞かされた。もちろん「金田一先生」「新村先生」と尊称つきで、その名を口にするとき並々ならぬ畏敬の念が溢れていたのを思い出す。考えてみたら新村は1967年、金田一は1971年にそれぞれ歿しているのだから、親しく謦咳に接した者にとってはまだ生々しい記憶が残っていた時期だったのだ。
金田一京助の名は辛うじて知っていた。中学(だったと思うが)の国語の教科書で、「心の小径」という随筆を読まされて、否応なく無理矢理に感動させられたことがあったからだ。刷り込みとは恐ろしいもので、ドーデの短篇「最後の授業」や杉田玄白の『蘭学事始』の一節(フルヘッヘンドのくだり)とともに、今でも頭の片隅に残っている。「小径」と書いて「こみち」と読むのもこのとき知ったのだと思う(次に見かけたのはプーランクの「愛の小径」)。
朧げな記憶で記してしまうと、南樺太のアイヌの言語調査に単身で乗り込んだ若き金田一は、殆ど言葉も通ぜず信頼も得られない四面楚歌の状況に陥る。万策尽きた彼は、アイヌの子供の前で紙に出鱈目な絵柄を描いてみせる。するとその子は「何?」という意味とおぼしい言葉を発した。
この語を知った金田一はそれから身近なあれこれを次々に指さして「何?」を連発することで、ひとつひとつアイヌ語彙を増やしていき、しまいには住民たちと円滑にコミュニケートできるに至る…とまあ、そういった顛末をそれなりに感動的に記した回想エッセイだったと思う。言葉こそは異民族同士の心の通い路、「心の小径」だ、というのが標題の意味するところだろう。
その後、金田一の名は石川啄木の無二の親友として立ち現れてきた。貧困の極にあって病に伏した啄木に同情し、なけなしの金を与えて窮状を救おうとしたという挿話は、どんな啄木の伝記にも友情溢れる美談として必ず記されていよう。
(明日につづく)