表参道に出る用事があったので、その帰りに少し足を延ばして古書日月堂に店主の佐藤真砂さんをお訪ねする。閉店間際なので失礼かとも思ったのだが、大切な相談事があったので致し方あるまい。
実は今の季節、例年なら真砂女史はパリに買い出しに出かけて留守なのであるが、店の移転問題が起こり、外遊どころではなくなってしまったのだという。
実は昨夏あたりから真砂女史は小生を叱咤激励して、構想を温めたまま放置されている「バレエ・リュスを観た日本人」の論考を執筆するよう、繰り返し勧めて下さった。「このまま愚図愚図していると、書かずに死んでしまいますよ」というわけである。まことにもってご尤もで、1998年にその端緒となる小論をしたためてもう十年以上になるというのに、その続きを一向に書こうとしない怠慢に業を煮やした女史は、「発表の場がないというのなら、この日月堂のHPを使ってでも、ぜひとも書くべき、書かねばならない、書きましょう」と言葉巧みに導いて下さった。
ロシア絵本やらプロコフィエフやらショスタコーヴィチやら石井桃子の青春時代やら、あちこち脇見ばかりしている小生も、さすがにここらで腹を括らざるを得なくなった。「わかりました、確かに人生とは終着地点の知れないマラソンレース。本当のライフワークを一日延ばしにしていては男が廃る。非力ながら是非ともやらせて下さい」と、こちらからもお願いした。
実は日月堂のHPに、すでにそれとなく告知(
→ここ)が打たれている。
「例えば戦前、ヨーロッパで起こった芸術運動が遥か東国の日本にもたらした衝撃について、ご寄稿をお願いいたしております」とあるのは、上に述べた小生の書くべき論考を指しているに違いない。こうなったらもう後には引けない。
折りから本年はディアギレフのバレエ・リュスが結成され、第一回パリ興行が行われてちょうど百年目の記念すべき年にあたっている。この好機逃すべからず。なんとしても連載を開始せねばならぬ。
構想はすでに纏まっている。
1912年6月、パリのシャトレ座。ニジンスキー初めての振付作品『牧神の午後』の世界初演の舞台を、満員札止めの客席の通路からひとりの日本人が立見で観劇し、その感想を冷静的確な筆で書き留めていた。
これを皮切りに、同年12月にはベルリンのクロル歌劇場で、翌13年6月にはパリのシャンゼリゼ劇場で、さらに14年5・6月にはロンドンのドルーリー・レイン劇場で…と日本人のバレエ・リュス体験は連鎖反応さながらに相次ぐ。しかもその興奮は殆ど時をおかず極東の島国につぶさに伝えられ、少なからぬ熱狂と憧憬を呼び覚ます。
…とまあ、ざっとそんなストーリーなのである。