昨年の今日のエントリーを読むと自分でも笑ってしまう。
Prokofiev in Japan の原稿執筆がまさにたけなわの頃で、必死の形相で英作文に取り組んでいる。
ヴェランダで煙草をふかしたほかは一歩も外へ出ず、ひたすら英文原稿を書き継いだ。ようやく本論に入り、750 words まで辿りつく。すでに訳してある引用部分も含めれば 1000 words くらいになったか。これで三分の一。ともかく全知全能を振り絞ってここまで来た。
なんて書いている。「3000 words で」という注文だったのだが、それがどのくらいの文章量なのか見当がつかず、全く手探り状態で書き進んでいたのである。なりふり構わぬ有様がわれながら可笑しい。涙ぐましい努力が報われて本当に良かった。
ともあれ、あの執筆が契機となってプロコフィエフの存在がひどく身近に感じられるようになったのは確かだ。まるで謦咳に接したことのある人物のように思えてきた。そんな折も折、ワレリー・ゲルギエフが来日し、「プロコフィエフ・ツィクルス」を振るという。この千載一遇の機会を逃すべからず。今日はその初日。
16:00- サントリーホール
ワレリー・ゲルギエフ指揮
ロンドン交響楽団
セルゲイ・プロコフィエフ:
音楽物語『ピーターと狼』
バレエ組曲『ロミオとジュリエット』抜粋
画期的な連続演奏の初日、しかも休日の昼間だというのにホールには空席が目立つのはどうしたことか。
明後日からの交響曲全曲演奏にも大いに心惹かれるのだが、小生にとっては前夜祭たる今日のプログラムのほうが興味津々、これこそ必聴なのだ。『ロミオとジュリエット』については言うも更なり。真の聴きものは前半の『ピーターと狼』のほう。
大方の音楽好きはこの曲を等閑視している。子供向けの音楽物語という、ただその一事だけで初心者向け入門編と軽んじ、多寡を括っているのだ。
それは大きな誤りだと思う。この曲ほどプロコフィエフの天才を感じさせる音楽はまたとない。円熟期に差しかかった作曲家が、差し迫る期日と、湧き上がる創意工夫の狭間で、興の赴くままに、それこそ一気呵成に書きあげた管弦楽曲なのだ。しかもストーリーそのものも彼自身の創作になる。全部まるごとプロコフィエフというわけ。今日はそのナレーションをなんとゲルギエフ自身が務めるのだという。
そんなことをつらつら考えていたら舞台に奏者が並び始める。少し大きめな室内楽団といった編成。思えば『ピーターと狼』を生演奏で聴くのはこれが初めてなのである。ほどなくゲルギエフ御大の登場。
通常なされる冒頭の「登場人物と楽器の紹介」は省かれ、いきなり「ある朝早く…」で始まるナレーションが流れ出す。おお、ロシア語ではないか! 耳に心地よいバス、大袈裟なところのない淡々と自然な語り。耳元で囁くようなソット・ヴォーチェなのだ。すぐさま弦楽合奏が「ピーター」、もとい「ペーチャ」の主題(軽やかな行進曲)を奏で出す。なんという繊細な音! たちまち夢見心地になった。
この曲を指揮しながら朗読するのは珍しい眺めである。かのバーンスタインですら、ディスクでは自らナレーションを担当しているが、「ヤング・ピープルズ・コンサート」での生演奏では別の朗読者を起用していた。ところどころ音楽に被さりながら進行するので、この一人二役は至難の技に違いない。ゲルギエフの朗読はたいそう音楽的に響く。言葉が音楽と併走するばかりか、ところどころで音楽と絡み合い、ひとつに溶け合うように聴こえるのは、これまでに耳にしたどんな朗読者もなし得なかった境地である。なんだか、プロコフィエフその人が言葉と音楽を同時に紡ぎ出す現場に立ち会っているような心地がした。
「ペーチャ」の主題を奏でる弦楽合奏は申すまでもなく、その他の登場人物を表す楽器(ホルン=狼、バスーン=爺さん、フルート=小鳥、クラリネット=猫、オーボエ=家鴨、打楽器=狩人)の正確さ、表情の豊かさに舌を巻く。こうして聴いていると、これがプロコフィエフの絶頂期の水際立った仕事であることが自ずと体得されてくる。終始プロコフィエフの楽曲に批判的だった小倉朗さんが、この曲については手放しで称賛していたのを想い出す(絵本の翻訳までしているのだ)。
休憩後の『ロミオとジュリエット』は「第二組曲」のほぼ全曲(第四曲のみ割愛)を前後に配し、中間に「第一組曲」の後半の四曲を挟み込む構成。すなわち、「モンタギュー家とキャピュレット家」で始まり、「少女ジュリエット」「修道僧ローレンス」を経て「タイボルトの死」に到り、最後を「ジュリエットの墓の前のロミオ」で締め括る行き方。実際の舞台とは異なるのだが、音楽だけを聴くならこれは実に賢明な配列といえよう。
さすがにこのバレエの舞台を知り尽くしたゲルギエフは、ドラマの起伏を大切にしつつ、表情豊かに楽曲を描き分けて余すところがない。これで崇高な悲愴感が加わるともう言うことなしなのだが、まあそれは無いものねだりだろう。それはムラヴィンスキーにのみ可能な神業なのだ。
終演後、打楽器奏者が忙しく配置換えしているので、アンコール曲があるのを察知。ひょっとして…という予想がずばり的中し、歌劇『三つのオレンジへの恋』の「行進曲」が奏された。今年初めにゲルギエフ指揮の舞台で接したときと同じく、早めのテンポでさらりと聴かせる。瀟洒な快演。心が沸き立った。
ともあれ、ゲルギエフ&LSOでプロコフィエフを聴いた、それも最上の楽曲の組み合わせで堪能した、という悦びで胸が一杯になる。
終演後の六時半から、ホール脇の「ブルーローズ(小ホール)」で講演(記者会見のようなもの)を聴く。あれだけの力演のあと、疲れた様子もみせず滔々と熱弁を振るうゲルギエフにほとほと感心。
(追記)
ゲルギエフが「ピーターと狼」を朗読しながら指揮するのは、これが初めての体験なのだそうだ。思うにロシア語版が舞台にかかるのも日本初であろう。