風邪薬を服用し、フルーツを食し、うがいを励行したのが奏功したらしく、だいぶ元気を取り戻した。大丈夫、今日も外出できそうだ。
銀座に着いたのは午後四時半。たっぷり時間があるので教文館六階の「ナルニア国」で児童書を手に取ったり、取り壊しが噂される歌舞伎座の建物を見上げたり、「ナイル」のムルギー・ランチやキーマ・カレーを食したり、松屋の地下でハイチ珈琲を味わったり。そうこうするうちに六時を回ったので、終着地である王子ホールにいそいそと入場。
半年近く前に前売券を手に入れて今日の来るのを指折り数えて楽しみにしていた。
英国のテナー、イアン・ボストリッジが英語の歌ばかり集めてリサイタルを開く。しかもノエル・カワードを中核に据えたプログラムだというので欣喜雀躍した。CDで彼が唄った「ノエル・カワード・ソングブック」(2002)が絶品だったからである。
予告されていたのとほんの少し違ったが、今夜のプログラムはとにかく凄い。
王子ホール 19:00-
Ian Bostridge & Julius Drake
ベンジャミン・ブリテン:
歌曲集「この子らは誰?」作品84 より 悪夢、殺戮、この子らは誰?、子供たち
歌曲集「冬の言葉」作品52
(休憩)
ノエル・カワード:
アイ・トラヴェル・アローン、イフ・ユー・クッド・オンリー・カム・ウィズ・ミー、20世紀ブルーズ、パリジアン・ピエロ
クルト・ワイル:
ホイットマンの四つの歌
『三文オペラ』より メッキー・メッサーのモリタート、ザロモン・ゾング、快適な生活のバラード
コール・ポーター:
ナイト・アンド・デイ、エヴリ・タイム・ウィ・セイ・グッドバイ
テノール/イアン・ボストリッジ
ピアノ/ジュリアス・ドレイク
これで一夜のリサイタルを組むのは勇気が要る。ひたすら暗く深く沈潜するブリテンの歌曲集からウィットとエレガンスの弾けるカワードのソングへ、さらに鋭い皮肉と諧謔のブレヒト=ワイルへ。よほど包容力のある歌手でなければ歌いこなすことはできかねる。それを真摯に、しかも余裕たっぷりに実現してしまうボストリッジのヴァーサタイルな才能に感嘆した。
前半のブリテンは聴き手に緊張と集中を強いる音楽だ。晩年の歌曲集「この子らは誰?」の暗灰色に塗り込められた世界はまるで同時期のマーク・ロスコの絵さながら救いがない。それに較べると、トマス・ハーディの詩(というかどれも掌篇小説の趣)に附曲した「冬の言葉」はまだしも人心地つく思い。それにしても肺腑を抉るようなボストリッジの鋭く怜悧な表現には唸ってしまう。
休憩後は世界が一変し、ノエル・カワードの洒脱なエヴァーグリーン・ソングが四曲。すべて上記のアルバム収載曲だが、さすがに歌いっぷりの自由さでは実演のほうが優れ、ドレイクの精妙きわまる伴奏("If You Could Only Come with Me" の冒頭のあえかな表情!)も相俟って、極上の愉悦感がホールをひたひたと満たす。天上のカワードもさぞかしご満悦のことだろう。長身のボストリッジがピアノに肘をもたせかけリラックスして唄う姿が実に格好良くサマになっていた。
"Twentieth Century Blues" の歌詞も今にして思えば意味深長だ。1931年の時点でこの歌詞を紡ぎ出したカワードはやはり只者ではないというべきだ。エルトン・ジョンもマリアンヌ・フェイスフルもそれぞれの流儀でこれを持ち歌にしているが、ボストリッジの当意即妙な唄いっぷりは、そのほろ苦い味わいを21世紀の今に蘇らせる。
Twentieth century blues are getting me down
Blues, escape those dreary twentieth century blues
Why, if there's a God in the sky, why shouldn't he grin
High above this dreary twentieth century din
In this strange illusion, chaos and confusion
People seem to lose their way
What is there to strive for, love or keep alive for
Say, hey hey, call it a day
当初の曲目が変更になり、思いがけずわが鍾愛の一曲 "Parisian Pierrot" が聴けたのは無上の悦び。
Mournfulness has always been
The keynote of the Pierrot scene,
When passion plays a part,
Pierrot in a tragic pose
Will kiss a faded silver rose
With sadness in his heart.
Some day soon he'll leave his tears behind him,
Comedy comes laughing down the street,
Columbine will fly to him
Admiring and desiring,
Laying love and adoration at his feet.
Parisian Pierrot,
Society's hero,
The Lord of a day,
The Rue de la Paix
Is under your sway,
The world may flatter
But what does that matter,
They'll never shatter
Your gloom profound.
酔いどれ気分のヴェルレーヌめいた戯れ唄を、ボストリッジはまるでフォーレを歌うかのように、精妙なソフト・ヴォイスで口ずさんだ。C'est l'extase langoureuse... 夢見心地のひととき。
(まだ書きかけ)