昨晩は二時近くまでかかって、原稿の短縮作業を終えた。長すぎるので致し方ないのだが、一旦仕上げた論考を大きくカットするには抵抗があり、甚だ苦しい作業となった。長尺のフィルムを短くするとき、映画監督はいつもこのような苦渋を味わっているのかもしれない。
反面、作業を進めるうち、意識はすでに執筆者から編集者へと移行しており、あちこち鋏を入れ、あるいはバッサリ大鉈を振るうことで、却って文意が鮮明になるところもままあって、まあ怪我の功名といえなくもない。それにしても辛かった。息も絶え絶えになって寝床に倒れ込んだ。
それに先立ち、昨夕は脱稿した解放感から新宿のジュンク堂へと赴き、音楽書の棚を眺めていて、こんな未知の本に遭遇した。
生島美紀子
音楽のリパーカッションを求めて
アルチュール・オネゲル《交響曲第3番 典礼風》創作
行路社
2007
まるきり存じ上げない音楽学者の著作で、しかも「リパーカッション」とは耳馴れない言葉だが、「波紋を描きながら拡がってゆくもの」の意味であるという。音の反響や、池に石を投げ入れたときの波紋のことだそうな。この題名で本書は大いに損をしているのではないか。
小生が惹かれたのは、副題に示されているとおり、本書がオネゲルの第三交響曲 Symphonie liturgique についての希少なモノグラフであるからだ。
オネゲルの交響曲といえばなんといっても戦時下の苛烈な第二番(弦楽とトランペットのための)が鍾愛の一曲なのだが、戦後間もない1945〜46年に書かれた第三番もまた、真摯で激越な、内省的で心を締めつけるような力作である。
エルネスト・アンセルメの最晩年のディスクを聴いてこれを知り、1970年に若きシャルル・デュトワの指揮する生演奏に接した(読売日本交響楽団「スイスの夕」)。同年のカラヤン&ベルリン・フィルの来日演奏を聴き逃したのは痛恨事だったが、その後もディスクではセルジュ・ボド、ジョルジュ・ツィピーヌ、ムラヴィンスキー、カラヤン、ミュンシュ、パウル・ザッハー、クリュイタンスらの名演に親しんできた。
さて本書は、まだざっと一読しただけだが、20世紀のシンフォニストとしてオネゲルが目指したものを、「真摯」「誠実」「人間的」といった漠たる形容詞ではなく、明確な音楽用語を用いて規定しようという意図に貫かれている。
オネゲルの生きた時代には、二度にわたる非人間的な大量殺戮があり、大衆からクラシカル音楽が遊離するという深刻な事態がすでに兆していた。調性音楽は危機に瀕し、新たなシステムとして登場した十二音技法が、将来の西洋音楽の進むべき途を問いかけていた。
著者はオネゲルがシェーンベルクの十二音技法をどう捉え、どう拒絶したかを明確に示すとともに、それに代わるべき手法として、彼が最低音を重視する「不協和音」と新たな「旋律性」に根ざした音楽を志向したとする。さらに、専門家の耳を納得させる「構築性」と、大衆を惹きつけ味方にする「メッセージ」との併存こそがオネゲル芸術の真骨頂であると指摘し、そこにかつてバッハが宗教音楽で用いた作曲手法(声楽=器楽的・ポリフォニー的スタイル)との共通性が見出せるのだと喝破する。
論考には夥しい譜例が繰り出され、第三交響曲(およびその比較例として「雌山羊の踊り」と第一交響曲)の細部が詳しくアナリーゼされるので、門外漢の一読ではとても咀嚼できないが、著者の論点の明快さに導かれて、どうにかこうにか最後まで読み進んだ。
この暴力と大量殺戮の跋扈する非人間的な時代に、いかにして「人間的な音楽」を書くか。オネゲルの切実な問いかけには20世紀を生きる芸術家としての普遍性があり、バルトークや小倉朗、クレーやジャコメッティの姿勢とも共振している。
小倉さんはかつて「オネゲルは響きが濁っているね、耳が悪いからだ」と言い切っていたが、著者はそう切り捨ててしまわず、そこに「美しさと肯定」の姿勢を見出し、音楽の再生への可能性をみようとしている。
ナチス政権下のドイツとともに最もおぞましい「非人間性」が跳梁したソ連で、オネゲルの第三交響曲がひそかに注目され、ショスタコーヴィチが二台ピアノ用編曲を行い、盟友ムラヴィンスキーが国内初演している歴史的事実も見逃せない。オネゲルの音楽が国境を越えて反響=リパーカッションした、ひとつの証しだと思うからだ。
オネゲルの音楽をあえて耳にせずに一読した。いずれCDで交響曲の細部を逐一耳で確かめながら、この労作をじっくり再読することにしよう。