なんとなく怪しい雲行きなので、傘を持って家を出る。
東京での野暮用が思いのほか早く済んで表に出ると、薄日が差してまずまずの陽気なので、のんびり神楽坂界隈をうろついてみた。
坂の多い街をあてどなく歩いていて、ふと小石川の印刷博物館での展覧会がもうすぐ終わってしまうことに思い到る。いや、ひょっとして、もう終了してしまったかもしれない。とりあえず、汗を拭き拭き、新目白通りをトッパン本社ビルまで歩いてみた。
大丈夫、まだやっている。折角なのでちょっとだけ覗いていこう。
「デザイナー誕生:1950年代 日本のグラフィック」という展覧会。「デザイナー誕生」というタイトルは意味深い。この十年間に、それまで「図案家」と呼ばれていた職能に、初めて「デザイナー」という呼称が与えられる。戦後の復興とともに、広告・宣伝メディアとしてのグラフィック・デザインの役割がようやく認知されたのである。
会場には五百点にも上る夥しいポスター、新聞・雑誌広告、パッケージと包装紙、書籍などが並ぶ。今どきの若い人はどう思うか知らないが、1952年生まれの小生にとっては、生まれ故郷を再訪するような懐かしさと、そして気恥ずかしさが感じられてならない。当時まだ幼年期だったから、街頭に貼られたポスターに見覚えがあるはずもないのだが、それでも多くの作品に通底する「時代精神」は紛れもなく、東京オリンピック以前の「あの頃」を彷彿とさせる。
はっきり記憶しているデザインもある。「
雪印アイスクリーム」の深紅のパーケージ(1952)、「
花王フェザーシャンプー」の小袋パッケージ(1955)は、子供心に深く刻印されたのだろう、数十年ぶりに目にしても、ああ、これ、と親しみを禁じえない。原体験のなんと強烈なことよ。
驚くべきは半世紀以上も経った今なお、現役で生き延びているデザインがあること。
レイモンド・ローウィの手がけた煙草「
ピース」(もちろん両切りのショートピースですぞ)がその好例だし、高名な洋画家・猪熊弦一郎のデザインした「
三越」の包装紙(例の赤い島状の色斑を散りばめたもの)もそう。それぞれ1952、1950年の仕事だというから驚いてしまう。エヴァーグリーンとはまさにこのことだ。
とはいうものの、全体として見通したとき、当時のグラフィック・デザインの水準は決して高かったとは言いがたい。亀倉雄策、原弘、河野鷹思、永井一正…と錚々たる顔ぶれが出揃っているものの、残された作品はどうにも切れ味が鈍く、野暮ったいことは否めないだろう。デザインとしての精度が甘く、詰めの甘さを感じずにはいられないのだ。これらを「ミッド・センチュリー・テイスト」などと愛惜し称揚する気にはならない。
私見によれば、この時代にあって、タイポグラフィと画像の間で精巧なバランスをとりつつ、高度な完成度に到ったデザイナーはひとりしかいない。杉浦康平である。
杉浦が1950年代の最後の年に手がけた東京交響楽団の一連のポスターがそのことを雄弁に証拠だてる。この会場のなかで、これらの作品だけが際立った強度を鮮やかさを保ちながら、半世紀後のわれわれの眼を鋭く射抜く。そのことを確認できただけでも本展に足を運んだ甲斐があった。
ちょうど一時間して会場を辞去。ちょっと迷った末、カタログは購入せず。詰め込み過ぎで図版が小さく、とても鑑賞に堪えそうもないからだ。
清々しい夏風を受けながら飯田橋まで歩く。時計をみると四時十五分。さあ、これからどう過ごすべきか。気がついたら、千葉とはまるで逆方向の下りの電車に乗ってしまう。行先はどこにしよう?