(六月二十三日のつづき)
たった一点の「スプレマティズム絵画」がニューヨークで競売にかけられ、高値で落札されたばっかりに、世界中のマレーヴィチ作品に「推定価格」がついてしまった、という話の続きである。
今日これから書く内容は、美術館の学芸員や新聞社の文化事業部の人々にとっては自明のことばかりなのだが、一般の美術ファンにはひょっとして耳新しい情報かもしれない。展覧会をどうやって実現させるか、そのためにどのような費用が発生するのか、という現実的なお話である。
「ルノワール展」でも「モネ展」でもいい、何か大掛かりな展覧会を実現するにはそれなりの手間と労力が必要だ。内外の美術館やコレクターから優れた作品を借り集め、独自の視点を打ち出して、ひとつの展示にまとめ上げる。一年や二年の準備期間では容易になし得ないことだ。
ところで、どこか海外の美術館からモネの『睡蓮』を一点借りることが決まったとしよう。どれくらいの「借用料」を先方に支払うべきだと思いますか?
答えは「0円」。基本的に借用料はただ。無料で借りてしまうのである。
貴重な作品をよくもまあ貸してくれるものだ、と驚かれたかもしれないが、これが大原則なのである。先方だっていずれ何かの展覧会で、当方の作品を借りることがあるかもしれない。お互い「ギヴ・アンド・テイク」で行きましょう、という考え方なのだ。
小生が現役時代、「モネ展」にオーストラリアの美術館から『睡蓮』を借りようと交渉したが、先方から難色を示されたことがあった。海外貸出が度重なったので少し控えたい、という意向だったと思う。質の高い名作なので、どうしても諦めきれずに交渉を続けたら、「あなたの美術館がおもちのジャクソン・ポロック作品、いずれあれをわれわれの展覧会に貸して下さることを条件に、今回の貸出を許可してもいい」という結論に至った。
こうした駆け引きは他国の美術館との間でだけ行われるわけではない。国内の美術館に対しても、作品を貸したり借りたり、互いに援助し協力し合うことで、信頼関係を築いていく。これがオーソドックスなやり方なのだ。
もちろん、これには例外がある。貸出に金銭を要求する美術館もないではないし、ひとつの美術館から多数の作品をまとめて借り出すような場合、端的に言えば「**美術館名作展」のような展覧会を催す際には、少なからぬ(あるいは莫大な)謝礼金を先方に支払う必要が生ずる。だが、そうしたケースはあくまでも「異例」なのであり、美術館同士の作品の貸し借りは「無償」、これが不文律だと考えてほしい。
そうなると、展覧会はずいぶん安価で実現できそうに思われるかもしれないが、さにあらず。作品借用にはこのほかさまざまな経費が発生する。
遠い異国からはるばる貴重な作品を運んでくるわけで、専門の美術品輸送業者に厳重な梱包を依頼する。そのうえで専用のトラックに乗せて空港まで運び、空路(これが原則)日本まで移送し、さらにトラックで美術館まで運搬する。しかも、その全行程を先方の美術館員がずっと同行するのである(クーリエという)。
展覧会が終了し、作品を返却する際もこれと同じ。再度クーリエを招請し、作品に異常が生じていないことを確認し、元通りに梱包してトラック→飛行機→トラックと、往路とは逆向きに作品を移送する。
肝心なことを言い忘れていた。借用する美術品には必ず保険をかけねばならない。
(六月二十九日につづく)