2003年に十五年勤めた美術館を辞めるにあたって、悔いも迷いもほとんどなかった。精神的に自由になりたかったからだ。
ただし、ひとつだけ心残りがあるにはあった。いつか実現したいと念願していたロシアの画家カジミール・マレーヴィチの日本初の回顧展が、実現の一歩手前で(正確には二、三歩手前だろうか)あえなく頓挫してしまったからだ。
当初の予定では、2003年春にスタートし、秋までに全国三美術館を巡回する計画だった。それを「男の花道」に見立てて、潔く身を引く…。密かにそんな目論見でいたのだが、のっぴきならぬ理由から展覧会はあっさり雲散霧消してしまった。
この展覧会を思いついた理由はきわめて単純だ。
小生が奉職していた川村記念美術館は、日本でただひとつ、この画家の手になる「スプレマティズム絵画」を所蔵する美術館だからだ。1915年、カンディンスキーやモンドリアンに先駆け、史上初の完全な抽象絵画(対象物をもたぬ「非対象絵画」)を発表して世界を驚愕させたマレーヴィチの、それは1917年頃とおぼしき時期の不可思議な作品である(
→ここをご覧じろ)。
この絵の正体を見極めたい。そう念じて久しい小生は、サンクト・ペテルブルグで、モスクワで、アムステルダムで、ロンドンで、マレーヴィチ作品を観る機会があるたびに、彼の「スプレマティズム絵画」の数々を、それこそ穴のあくほど凝視したものだ。
展覧会実施が不可能に追い込まれた要因はいくつかあった。
そうなるに至る、そもそもの発端となった、しかも決定的な出来事は、すでに2000年に起こっていた。
一枚の「スプレマティズム絵画」がニューヨークでオークションにかけられ、1,700万ドル(ざっと20億円)の高値で落札されたのである。しかもその絵は永年 MoMA(ニューヨーク近代美術館)のコレクションとして、画集にもしばしば収録される作品だったのである。誰もが「なぜこんなことになるのか?」と訝しく思ったものだ。
その絵は1920年代前半の作とされる油彩画で "Suprematist Composition" と題されている(
→これ)。
マレーヴィチの「スプレマティズム絵画」の殆どすべては、すでにロシア内外の著名美術館に所蔵されており、美術市場で売買される機会はきわめて稀である(少なくとも2000年の時点ではそうだった)。したがって、それらの絵画は「かけがえのない美術的価値」が認められてはいたものの、評価額(売買するといくらかという資産価値)が定めがたい状態がずっと永らく続いていたことになる。
そこへいきなり20億円である! しかも、この売却作品はマレーヴィチの「スプレマティズム絵画」のなかで格別出来の良い部類には入らない。1919年にいったん絵画制作に終止符を打った彼が、なんらかの事情で「リメイク」的に描いた作品と推察され、言ってみれば二線級の作品なのである。それなのに、この金額で買い手がついてしまった。
マレーヴィチ作品を所蔵する世界中の美術館が、収蔵作品簿を引っ張り出して(←古い表現で失礼)評価額の見直しを検討し始めるのは、蓋し当然の成り行きなのである。
かく言う小生とて例外ではなかった。このニュースに接したとき、「あの程度の作品が20億もするのなら、わが川村作品はさしずめ…」と、すぐさま皮算用を始めたことをよく憶えている。
ところで、そもそも MoMA ともあろう美術館が、なぜこの作品をみすみす手放してしまったのであろうか。
ここで話題は一息に時代を遡り、1927年のベルリンへと舞台を移す。
(次回へ続く)