殆ど一睡もできぬまま、朝食もそこそこにホテルを出発、いつものバスでゴールドスミス・カレッジへ向かう。先日の「スタディ・デイ」の折に、今日アーカイヴを訪ねる約束をノエル先生、フィオナさんと交わしておいたのだ。
約束の九時半にはまだ間があったが、アーカイヴ司書のフィオナさんがちょうど出勤していらしたので、息せき切ってこう尋ねた。「先日出た "Three Oranges" は、もう購読者宛てに発送してしまいましたか?」
まだどこにも送っていない、との返答にひとまず安堵する。小生はわれわれの論文にいろいろ間違いが生じてしまったこと、できれば正誤表の紙片を挟み込んでから発送していただきたいこと、この二点を懇請した。「今日はまだ発送しないつもり。正誤表の件は、可能かどうか、あとでノエルに会ったとき相談してみてほしい」との返答。とりあえず胸を撫で下ろす。
フィオナさんに案内され、図書館の三階(英国流にいうとセカンド・フロア)にある「プロコフィエフ・アーカイヴ」の閲覧室へと導かれる。入室者リストに氏名を記入し、予め所望しておいた映像資料を手渡される。今日は2005年にプリンストン大学で行われたプロコフィエフのバレエ『鋼鉄の歩み Le Pas d'acier』(1925年、バレエ・リュス初演)の復元上演の記録映像を収めたDVDを視聴させていただく。初演から八十年目のこの記念公演では、先日のスタディ・デイでも講演された同大学のサイモン・モリソン教授が企画段階から深く関わっておられたという。
革命後のソ連を肌で知る舞台美術家ゲオルギー・ヤクーロフとのコラボレーションで進められたこのバレエについては、初演時の舞台写真数葉、舞台模型の写真、ヤクーロフのスケッチ類、それにプロコフィエフが書き留めたオリジナル・シナリオ案、『プロコフィエフ日記』の記述など、それなりに同時代資料が残されてはいるものの、レオニード・マシーンの原振付は継承されず、完全に失われてしまった。当時を知る生き証人ももはや殆ど存命しない。
こんな状況下で試みられた復元上演だから、その信憑性については一定の留保条件が付き纏う。しかも、原振付の「復元」もしくは「再構成」にあたったのは、これまでも『春の祭典』『遊戯』『ナイチンゲールの歌』など、幾多のバレエ・リュス初演ものの復活を手掛けて名を馳せたミリセント・ホドソン、ケネス・アーチャー夫妻なのである。彼らの振付復元の手法と、その当否については、これまでも賛否両論がとかく喧しい。一言でいえば「札つき」なのだ。
小生も「ニジンスキー原振付」の再現というふれ込みで、2000年に倫敦で『遊戯』、2005年に神戸で『春の祭典』、それぞれの復元上演をつぶさに実見する機会を得たが、どちらもその印象は「???」。いかにも「それらしい」舞台に、「きっとこうだったかも」と思う一方で、「どれほどの証拠があるのだ?」という疑念を禁じ得なかった。この二作こそモダン・ダンスの原点だという仮説から出発して、そこから逆向きに演繹した結果の「もっともらしさ」かも知れないからだ。
狭い映像ブースにひとり篭もって、『鋼鉄の歩み』の上演記録を二回繰り返して鑑賞。二度目はメモを取りながら注意深く細部を観察した。
導入部が初演時のシナリオと異なっている様子だが、あとの展開はオリジナルをそっくりなぞっている。構成主義風に足場を組んだ舞台装置やカラフルな衣裳も、それなりにヤクーロフの原案を模しているので、「なるほど、こんな上演だったのか」と思わず信じたくなる。
だが、問題は肝腎の振付だ。一見して、ジャック=ダルクローズのユーリズミクス体操風の所作と、メイエルホリドのビオメハニカばりの機械的な身体表現とを折衷したことがわかる振付なのだが、1925年の初演が本当にこうだったのかは「神のみぞ知る」といったところだろう。レオニード・マシーンが仕上げた振付が果たしてここまで同時代のソ連に接近できたものか。なんとも言えないところだ。まあ、このいかにも「もっともらしい」のがホドソン&アーチャー復元版の真骨頂にして、罪つくりなところなのだが。
大学での上演なので、ダンサーも管弦楽もすべてプリンストンの学生。なかなかの健闘ぶりだが、オーケストラの精度はかなり低い。むしろ拙劣といってよかろう。
昼食を摂りに三十分ほど中座したのち、二枚目のディスク(関係者へのインタヴューとメイキング映像を収録)を再生。ホドソン女史が復元に至る過程を熱っぽく語っている。やはりビオメハニカの身体表現を大幅に取り入れたとのことだが、そもそもメイエルホリド一座の身体表現の具体的な細部が解明されていないのに、さもそれを自明のもののように語ってしまうのは欺瞞だと思う。このほか、サイモン・モリソン氏がプロコフィエフの音楽について註釈を加え、続いてノエル・マン先生が登場して、残されたアーカイヴ資料が復元にどのように生かされたかを語る…。
そこまで観たところで、背後でドアが開く気配がしたのでふと振り返ると、なんとノエル先生ではないか。時計を見ると、約束の二時になっている。
早速ブースから閲覧室に戻り、まずは改めて "Three Oranges" に寄稿する機会を与えて下さったことを感謝するとともに、「どこの誰ともわからぬ小生のような者に依頼するのは adventurous ではなかったですか? ほとんどギャンブルだったのでは?」とお尋ねしてみた。
「これまでも、私はいつも危険な賭けをしてきたので、こういうのは慣れっこ」「誰ひとり日本人の研究者を知らなかったので、たまたま just in time にコンタクトしてきた貴方にお願いするほかなかった」とのお答え。絶妙のタイミングで企てに加わることのできた幸運をつくづく思い知らされた。
そのあと、日本からはるばる持参した書籍とCDを、「プロコフィエフ・アーカイヴ」への寄贈用にと手渡した。
稀少なものでは、大田黒元雄の著作から『露西亜舞踊』(1917)と『続バッハよりシェーンベルヒ』(1918)の二冊。
さらに、小生が関わった三冊の展覧会カタログ『ディアギレフのバレエ・リュス』(1998)、『ダンス!』(2002)、『幻のロシア絵本』(2004)も進呈した。併せてロシア絵本の覆刻版十冊セットもお目にかけると、「これは本当に素晴らしいものね!」と、さすがに驚かれたご様子。
『ディアギレフのバレエ・リュス』カタログには、収載拙論の英訳も添えた。
CDは日本でしか手に入らないプロコフィエフものを三枚。
まず平林直哉氏がソ連のSPから覆刻したゴロワーノフ指揮の「ピーターと狼」。さらにコンドラシンがN響を振った「第五交響曲」と「キージェ中尉」のライヴ。同じくコンドラシンがモスクワ・フィルと来日した際のライヴ(「三つのオレンジへの恋」のスケルツォと行進曲が聴ける)。これらは英国では間違いなく入手困難の筈だ。
贈呈の儀式が終わったので、さあ、そろそろ今日の本題に入るタイミングだ。
小生は鞄から"Three Oranges" 誌を取り出すと、巻頭論文の頁を開き、思いもよらぬ事実誤認が生じてしまったこと、執筆途中でそれらの間違いを指摘したにも関わらず、手違いで訂正がなされなかったこと、まだ発送前なので、せめて「正誤表」を挟み込んで誤りを是正したいことを、不自由ながら言葉を尽くして縷々説明した。昨晩、眠れぬままに用意した手書きの「正誤表」もお目にかけた。
懇請にしばらく耳を傾けていたノエル先生は、話を遮るようにキッパリと言い放った。
「シンイチ、お話はわかったけど、もう印刷してしまった以上、何ひとつ変えることはできないわ。原稿に誤りはつきものよ。申し訳ないけれど、諦めて頂戴。私から謝るわ」
はっきりとそう断言され、その強い口調にけおされて、それ以上はもう反駁できなかった。頭が真っ白になり、そのあとは英語が口をついて出なかった。
先生はそこで話を切り上げると、「このあと会議があるから…」と立ち上がった。
小生は「今日、このあと合唱団の練習があるとうかがったのですが、少しだけ見学させて下さい」と、それだけお願いするのがやっとだった。先生の顔に「やれやれ」といった困惑の表情が浮かんだが、すぐ「わかったわ、四時からよ」とお答えになると、踵を返して部屋から出ていかれた。
もはや万事休す。訂正の方途はぷっつり断ち切られてしまった。
そのあとの一時間、どこでどう過ごしたのか、記憶が定かでない。
四時から大学本館の音楽学部の教室で、ノエル先生の指揮による合唱団の練習に立ち会う。
来週の月曜がコンサート本番で、それに備えての直前練習なのだが、団員の学生たちは定刻になってもなかなか集まらず、見るからにやる気のなさそうな様子。
聖歌やオペラの一場面など、ロシアの近代合唱曲のアンソロジーからなるプログラムなのだが、声がまるで揃わず、躍起になった先生から叱正の声が飛ぶ。こんなことで本番を迎えられるのだろうか。
もともと今回の訪英は、"Three Oranges" 刊行に合わせて先生にお目にかかり、アーカイヴを訪問するのを主眼としているが、より直接には「5月19日に私の指揮するロシア合唱曲のコンサートがあるので、お聴きになってはいかが?」というお誘いのメールが契機になっている。こんな覇気のない連中のだらけたコーラスを聴くために地球を半周したのかと思うと、なんだか情けなくなる。
一時間ほど見学させていただき、先生に「それでは」と目礼して辞去した。
大学図書館前から路線バスでウォータールーへ。夕方なので渋滞を危惧したが、思いのほかすんなり着いた。そこから地下鉄に乗り、ウェストミンスター経由でスローン・スクエアへ。この駅から至近距離に「カドガン・ホール」という新しい演奏会場ができ、注目されていると聞き、ぜひ訪れてみたくなったのだ。今夕は七時半からロイヤル・フィルの定期演奏会がある。同オーケストラはどうやらここを本拠地と定めたらしい。
予定より早く、六時ちょっと過ぎに着いた。カドガン・ホールの建物がすぐ近くのところに見えたので一安心。まずは夕食を済ませておこうと、周辺をふらつく。路地を入った辺りに居心地の良さそうなイタリアン・カフェを見つけた。値段も手頃なので、サラダとパスタとワインで腹拵え。嘆いてばかりではコンサートが愉しめない。気を取り直せねば。
カドガン・ホールについて簡単に触れておこう。この耳慣れないホールを教えて下さったのは、ほかでもないノエル先生だ。三月だったかに「どこかお勧めの演奏会場はありますか?」との小生の質問に、老舗のウィグモア・ホールに次いで、「スタイリッシュな場、興味深い演目」のホールとして推薦して下さったのだ。もともとは百年前に建造された教会堂だというが、廃寺になっていたのを改装し、瀟洒な演奏会場として蘇らせたものだ。2004年オープンというから小生が知らないのも当然だ。
七時少し前にホールに着いて、(これも日本で予約しておいたので)チケットを発券してもらおうと窓口へ。そこに張り紙があり、今日の指揮者ヴァーノン・ハンドリーが「急病のため」キャンセルになった、と知らされる。なんとしたことだ、昔から英国音楽の名匠としてレコードで親しんできた人なので、実演が聴けるのを楽しみにしていたのだが。もうかなりのご高齢のはずだから、まあ致し方あるまいが、それにしても残念至極である。
19:30- Cadogan Hall
ポール・ダニエル(代役)指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
チェロ/ガイ・ジョンストン
エルガー: 弦楽セレナード
ウォルトン: チェロ協奏曲
ヴォーン・ウィリアムズ: 交響曲 第四番
代わりに指揮台に立つポール・ダニエルはまるで知らない人だが、ENO(イングリッシュ・ナショナル・オペラ)でしばらく振っていたというから、それと気づかずに聴いているかもしれない。
ハンドリーが聴けない悔しさを紛らわそうと、入口脇の洒落たバーでワインを呑む。眠くなったって、ええい構うものか。
ホールは建物の最上階にあるので、狭い階段を延々と上らされるのが難儀だが、ひとたび場内に足を踏み入れると、ハッとするほど簡素で美しい佇まい。これは音が良さそうなホールだと直覚する。座席数はやっと千に届くかどうか、といったところ。ほどよい大きさだ。
三々五々楽員が舞台に参集し、いよいよ開演だ。代役のダニエルはまだ三十代後半だろうか。身振りがやたら大仰なのがいかにもオペラ出身らしい。紡ぎ出される音楽も良くいえば構えが大きく、悪くいうと押しつけがましい。「そこまでやってみせなくっても判るのに」と言いたくなる。
一曲目のエルガーではその資質が凶と出て、楚々としたニュアンス(それがこの曲の命なのに)が悉く消し飛んでしまった。ああ、ヴァーノン・ハンドリーだったらどんなに良かったろう!
ウォルトンのチェロ協奏曲はなんとなく凡作との印象があったのだが、渋い曲想ながら、想像していた以上に楽しめる佳曲だった。チェロの多彩な相貌を引き出す工夫も心憎い。
ここで休憩。またワインをいただいてしまう。こんどは白。
後半はヴォーン・ウィリアムズの大作、第四交響曲。小生はたぶん初めて耳にするが、思いがけず重苦しく悲劇的で、晦渋ですらある難物とみた。ひとつ前の「第三」が穏やかで心なごむ「田園交響曲」なのと、余りの対照ぶりに驚かされる。ダニエルの指揮も、ここへ至ってようやく本領を発揮し、暗く激越なダイナミズムを思いきり表出した。
もっとも小生にとっては,もともと打ちひしがれていた気分がさらにしたたかブロウを食らい、奈落へと落ち込む思い。今日のような日に聴くには深刻すぎる音楽だ。今年はVWの歿後五十年とかで、倫敦じゅうの楽団が彼の交響曲をこぞって取り上げるようだが、小生はこれでもう打ち止めにしたい。
今日は長く辛い一日だった。毎日がこれでは身がもたない。