(承前)
フィオナさんからの返信は翌日(11月16日)すぐに届いた。
定期講読申込書が添付され、郵便局からの国際為替送金(インターナショナル・ポスタル・オーダー)で構わない旨、明記されていた。「入金が確認でき次第、すぐに雑誌をお送りします」とのことだ。そしてそのあと、こんな一文が続く。
オオタグロについての情報、どうもありがとうございます。あなたが彼の名前を引き合いに出したのに興味を惹かれました。というのも、つい最近、私は『三つのオレンジ』誌編集長のノエル・マン Noëlle Mann との間で、彼のことを話題にしたばかりだったから。彼女はプロコフィエフの日本訪問に注目しているところです。
ところで、あなたは音楽学者なのですか?
なんということだろう、つい最近、大田黒のことを話題にしたって? 倫敦で、プロコフィエフ財団の人たちが! 今や日本でも半ば忘れられた存在になっている大田黒元雄のことを知る外国人がいるなんて!
すっかり嬉しくなってしまった小生は、二日後の11月18日にフィオナさんに自己紹介した。
I am not a professional musicologist, but a free-lance writer and (an ardent) researcher of history of modern art, music and dance.
そして、「もしあなたが大田黒や、プロコフィエフの日本訪問にご興味がおありでしたら、どうか下に書き添えた一文をお読み下さい。ひどい英語で恐縮ですが」と断ったうえで、 "About Motoo Ohtaguro and Prokofiev (Part l)" と題したレポート用紙一枚分ほどの英作文を草してみた。その出だしはこんな具合。
Motoo [pronounced as moto-o] Ohtaguro (1893-1979) was a pioneer of Japanese music critic, who introduced the contemporary western composers such as Debussy, Ravel, Scriabin, Stravinsky and Prokofiev for the first time to Japan. He was born in Tokyo as the only son of a wealthy industrialist Jugoro Ohtaguro, the co-founder of the electric company Toshiba.
In January 1913 Ohtaguro went to London to study economics at the University of London. As a young admirer of western music and drama, he frequently visited concert halls and theatres. He saw modern plays of Shaw, Galsworthy, Yeats and Synge, and went to the concerts and recitals by Henry Wood, Landon Ronald, Fritz Kreisler, Sergei Rakhmaninov, Alexander Scriabin, Wilhelm Backhaus, Leo Ornstein, Nellie Melba, John McCormack and Feodor Chaliapin among many others.
After seeing Nijinsky dancing at the Palace Theatre in March 1914, he became keenly interested in the new trends of Russian ballet and music. In June, he frequented almost every performance of the Ballets Russes of Diaghilev and was totally overwhelmed by the company's powerful dancing, the revolutionary music by Stravinsky and the concept of "Gesamtkunstwerk," combining music, drama, poetry and art by human bodies.
これで全体のざっと四分の一くらい。なんでこんなに書けるのかといえば、1998年にセゾン美術館であった「ディアギレフのバレエ・リュス」展のカタログに大田黒のことを書いたことがあるので、それを敷衍してみたまでだ。
すでに当ブログでも書いたとおり(
→ここ、そして
→ここ)、大田黒とプロコフィエフの出会いについては欧米の研究者は全くわかっていない。よく調べて書いてあるはずの Daniel Jaffe や David Nice の評伝ですら、大田黒とプロコフィエフがシベリア鉄道で出会っただの、大田黒がプロコフィエフを夏の別荘に招待しただのと、誤った記述が罷り通っている。
これは彼らの落ち度ではない。正しい情報をきちんと提供してこなかった日本の専門家たち(そういう者が存在するとしてだが)が責めを負うべきなのだ。
こうした義憤めいた思いが小生のなかで長く燻っていて、それがこの長文の紹介メールを書かせたのだと思う。
とにかく大田黒がプロコフィエフと出会うまでのあらましを記して、1918年に出た大田黒の著作で、プロコフィエフに一章が割かれている事実を指摘し、
Prokofiev arrived in Japan on 31 May 1918, just a month after the publication of the Ohtaguro's book. What a miraculous coincidence!
と締め括り、後日この続きを書くつもりで "to be continued to Part ll: Encounter of Ohtaguro & Prokofiev" と書き添えた。このメールの送信が11月18日。
翌19日、フィオナさんから「今度もオオタグロについての情報をありがとう! 貴方のメッセージをノエル・マン(編集長)にも転送してしまったので、どうかご諒承下さい。彼女がこの主題に興味津々なのを私は知っているものですから」と返事があった。
小生は郵便局から財団宛てに送金したことを知らせるついでに、21日のメールで
私の大田黒についての情報がノエル・マンさんの手に渡ったと知り、嬉しく思います。もうじき刊行されるプロコフィエフの日記の英訳本第二巻で、日本滞在時に関して正しい脚註が掲載されるのを望んでいます。このほかプロコフィエフが日本で出会った日本人、訪れた場所、東京と横浜でのリサイタルの曲目など、いくつかの情報を提供する準備もあります。
正しい情報さえ提供できればそれで満足だ、というのが、この時点での小生のスタンスだ。それさえできたなら、日本のプロコフィエフ愛好家としての使命は果たせたことになろう。メールを送ったあと、「ああよかった、これで終わった、自分のやれることはやった」という気持ちになった。
ところがそれは「ほんの始まり」に過ぎなかったのである。
(つづく)