倫敦行きが迫ってきた。
目的のはっきりした旅なのだが、それでも二十日ほど滞在するので、その間にいろいろな舞台を見聞できるのが愉しみだ。コンサートは勿論だが、オペラやバレエ、ミュージカル、更にはストレート・プレイも…と欲張って計画をたてているところだ。
外国で芝居を観るときのハードルの高さといったら、また格別だ。
もう十年以上前のことだが、ノエル・カワードの "Present Laughter" という芝居を観たくなり、事前に現地の本屋で台本を手に入れて、公園のベンチでせっせと予習した。ただし、最終幕の結末を知ってしまうと興味が半減するので、そこだけはわざと未読のままで劇場に赴いた。
結果はといえば、それまではほどほどに理解できていたプロットが終幕になった途端に辿れなくなり、台詞もさっぱり耳に入らず、何がどうなったのかわからぬまま大団円と相成ったのである!
今回は三本ほど観ようと考えているのだが、そのなかにバーナード・ショーの名作『ピグメイリオン(ピグマリオン) Pygmalion』が含まれている。この戯曲の日本語訳(白水社、1993)に昨日ざっと目を通した。御存じ、『マイ・フェア・レディ』の原作である。ミュージカル(とその映画化)はショーの戯曲にかなり忠実なので、おおむね同じストーリーだし、そっくりな台詞も頻出するので、大いに理解の助けになろう。
ただし、結末が全然異なる。ヒギンズの薫陶と特訓の結果、社交界デビューを果たしたイライザは、その過程でひとりの女性としての自覚に目覚め、自分をいつまでも子供扱いし、操り人形のように私物化するヒギンズ教授に反発する。悩みぬいた末に彼の許を去ったイライザは、それでも彼が忘れられず、最後はふたりは和解してめでたしめでたし、というのがミュージカル(とその直接の原作たる映画版『ピグマリオン』)の結末だった。
ところがショーの戯曲は違う。イライザは教授を後に残してプイと出ていってしまう。あまりに呆気なく、後味も悪いが、それが幕切れなのだ。
しかもショーは御丁寧にも、註釈めいた「後日談」も書き残しており、そこではイライザが(善良だが気弱な青年の)フレディと結婚してしまうという意外な結末が示されているのである! ヒギンズ=ピュグマリオンは自ら創り上げた「作品」に、ものの見事に裏切られて終わるのだ。
翻訳台本の「あとがき」でこの芝居の英国初演が1914年だと教えられ、ふとそれが大田黒元雄の第一次倫敦滞在時にあたることに気がついた。
大田黒の最初の著作である『現代英国劇作家』(洛陽堂、1915)を試みに開いてみると、やはりあった、当時の最新作であるこの芝居に関する記述が。
「ピグマリオン(Pygmalion)」はローマンスと名附けられて居る。花売娘が短日月の間に、公爵夫人と云つても差支えない程の貴女に変化したところが、ローマンスといふ名のある所以だ相である。何れにしても笑ひの分量の多い妙な作である。
其の構想は例に依つて奇抜なものであるが、中心と成つて居るのは、相変らず英国の中流社会に行はれて居る道徳や礼儀作法に対する嘲笑に外ならない。
此の作で花売娘は声音学[ルビ:フェネティックス]の大家ヘンリーヒッギンスの熱心な教授に依つて、貴女に変じる。しかも貴女に成つてからの女は前の如くに花を売るわけにもゆかない。従つて何等自活の道を失ふ。唯一つの方法は何人かと結婚するだけである。こゝでは「婦人と社会」の問題が出る。
ヘンリーヒッギンスは、此の貴女に変じた花売娘を己れの妻にする考へは無い。而かも彼女を手放す事を欲しない。花売娘エリザは自分が、ヒッギンスの成功と勝利に用ゐられた一種の傀儡に過ぎないのを知つて悲む様に成つた。彼女は貴女としての話し方を覚えた。けれども彼女と花売娘との相違は、如何に「扱はれるか」にあるので、如何に「振舞ふか」にあるのではない。ヒッギンスの友人のピッカーリングは花売娘の時から彼女を貴女として取扱つた。ところがヒッギンスは貴女と成つてからの彼女を、花売娘として取扱つて居る。ヒッギンスは明かに此の事を是認して居る。彼は所謂作法を知らない。唯彼は花売娘にも貴女に何の区別なしに対して居るのであつた。
う~ん、はなはだ見事な要約である。この本では、こうした調子でそれまでのショーの戯曲全二十六作が手際よく紹介されている。大田黒元雄はこの時点でまだ二十二歳だというから、その博識と才筆ぶりに驚くほかない。
ハッとさせられたのは、それに続く一文である。
ドイツで演ぜられた時には、最後にエリザが冷然と出て行つてしまふ。ヒッギンスは是非とも女を自分の家に呼び戻さうとして、其の出て行く前に、手袋や襟飾を買ふ事を頼む。けれどもエリザは確答をしないで出て行つてしまふ。併しヒッギンスは、大丈夫彼女が己れのところに帰つて来る事を、確信して終つて居る。
これは今、活字で読める幕切れとちょっと違う気がする。現行版ではヒギンズは自暴自棄になって、「イライザはフレディと結婚するんです。はっ、はっ! フレディ! フレディ!!」と狂ったように高笑いするのだから。
大田黒はさらに次のような驚くべき事実を書き記す。
けれども倫敦で演ぜられたのでは、エリザが去つたあとで、ヒッギンスは扉を開いて見たが其の影も見えない。彼は女の名を大声に呼んだが、何の返事もない。彼の心は漸く不安になる。それから一分程経つて、もう万事終つたと思ふ頃、突然戸口にエリザが立つ。そして手袋の番号を尋ねる。謎の解けてしまつて居る代りに、此のサスペンスに現はした作家の機智と道楽気に、最も愉快な大詰が見られる。
へぇ~、そうだったのか。ショー自身この芝居をどう終わらせてよいのやら迷っていたのだ。
ミュージカルの結末を先取りするようなエンディングが、すでにロンドン初演(1914年4月11日、ヒズ・マジェスティーズ・シアター)で試みられていたとは驚きである。