もう四月も半ばにさしかかり、連日の花見の記憶もすっかり薄らいでいたのだが、たまたま広尾の有栖川公園を通りかかったら、有栖川騎馬像前の広場の桜がまさに満開を迎えていた。といっても、八重桜が七、八本あるだけなのだが、暖かい陽射しに恵まれ、その一帯は楽園さながらだ。格好の観桜日和なので、しばし佇んで名残の花見をした。
今日はこの公園内にある都立中央図書館でいくつか調べもの。
まず最初は「美術」の書棚で、連載「旅するアート」の材料集め。五月に外遊するため、四月中に二本分まとめて仕上げる必要が生じ、大いに焦っているのだ。掲載号はそれぞれ七・八号というので、夏向きの旅の話題ということで、「海水浴」と「避暑地」をテーマに作品を選ぶ。実はもう絵の選定は終わったのだが、肝腎の書くべきネタを探さねばならない。そのための材料集めなのである。
先日、妹からの電話で、連載の第二回目を美容院だったか書店だったかで読んだといわれ、「お兄ちゃんの文章は情報を詰め込みすぎで読み辛い。もっとサラリと読めるよう留意すべきだ」と忠告された。だから今回はあまり調べ過ぎないよう心掛ける。知ってしまうと、それを書かずにはいられなくなり、つい内容過多になりがちなのだ。だから今日の下調べも「ほどほど」にしておこう。
そのあと、「宗教」のコーナーに移動し、日本におけるロシア正教に関する書目にざっと目を通す。実はだいぶ以前にここで、題名は失念したが大主教ニコライ(神田の「ニコライ堂」のニコライです)に関する書物のなかで、わが曾祖父(沼辺愛之輔)の写真を見かけた記憶があるのだが、それがどの本だったか皆目わからず往生する。結局あれこれ閉架図書も借り出して、一時間以上かかってようやく突き止めた。五月に倫敦で自己紹介をするときに、「自分とロシアとの縁(えにし)」を語るうえで、曾祖父が一世紀前にニコライのもとで秘書役を務めていた事実も、欠かせないように思えてきたのだ。
1900(明治三十三)年にニコライ堂の前で信徒一同が会した記念写真。曾祖父は顔つきが晩年の父にそっくりなのですぐわかる。最前列中央、大主教のすぐ斜め前という坐り位置も、ニコライの側近という立場を物語っているようだ。
二時間ほどして退出。本当は『吉田秀和全集』も調べたかったのだが、それは後日を期することにした。このあと三時に約束があるのだ。
途中ちょっとだけお茶の水でCDを漁る。収穫はほんのわずか。
素晴らしい陽気なので、そのまま本郷三丁目までずんずん歩く。初夏のように爽やかな微風が心地よい。十五分ほどで「アルカディア書房」に到着。
ここでも倫敦に持参する本を探す。徳川頼貞の自伝『薈庭樂話(わいていがくわ)』は、彼とプロコフィエフとの交友を探るうえで小生が唯一の典拠とした書物であるが、架蔵するのは1943年刊の短縮改訂版。今日アルカディアで手渡されたのは、もともと五十部しか刊行されなかったという幻の限定初版(1941)だ。プロコフィエフの章は同一なのだが、全体で三十頁ほど分厚い。おそらく現存するのは十部あるかないかだろう。これは入手しておくに如くはない。
もう一冊は大田黒元雄の『露西亜舞踊』(1917)。プロコフィエフもこれを大田黒から見せられて瞠目したという、曰くつきの書物である。これはプロコフィエフ財団に進呈しよう。
帰宅後はさっき手にしたばかりのCDをかけてみる。
プロコフィエフ: 弦楽四重奏曲 第一番、第二番
チリンギリアン四重奏団
1990年10月2~4日、ケンブリッジ大学音楽学部コンサート・ホール
Chandos CHAN 8929 (1991)
プロコフィエフに二曲のクァルテットがあることは承知していたが、今の今まで食指が伸びなかった。こうして聴いてみると悪くない。少なくとも第一番はもっと聴かれてよい曲だと思う。演奏にも好感がもてた。あと二枚ほどあるのだが、それは後日。
これを聴きながら、和文英訳の再チェック。仔細に読み直すと、あちこちに綻びがある。まあ異国の文を綴るのだから致し方あるまい。