ディアギレフのバレエ・リュスは、国境を越え、あらゆるジャンルの垣根を越えて20世紀芸術を開花させたひとつの大きな共同体であった。日本人の名前はそこにはひとつも登場しない(少なくともリチャード・バックルの名著『ディアギレフ』には)。だが、客席から熱狂的な喝采を送った人々がこの共同体の住人でないと誰が言えよう。彼らもまた、それぞれの立場からそこに参画し、運動の一翼を担っていたのではないだろうか。その意味で、本稿に登場した日本人たちはみな、この芸術運動の加担者だったといってよい。山田耕筰、小山内薫、島崎藤村、大田黒元雄──彼らこそは、担い手として最もふさわしい資質を備えた人々だったのである。
1998年に東京のセゾン美術館で開催された「ディアギレフのバレエ・リュス」展カタログに寄せた拙文「ニジンスキーを観た日本人たち」の結びの文章である。
たった今、ようやくここまで英訳が辿りついて、この一節を訳了して終わった。ふう。三月初めに取りかかって以来、ちびちびと、まるで牛の歩みのように遅々として進捗しなかったのだが、これでようやく大団円を迎えた。あとは、三十ほどある脚註を訳せばそれでお仕舞いだ。
これを五月に倫敦まで持参して、自己紹介代わりにプロコフィエフ財団の方々にお目にかけよう。なぜ小生がこうも執拗に、プロコフィエフと大田黒との出遭いに拘泥しているのか、その理由の一端がわかっていただけることだろう。ただし、わが和文英訳が使い物になるならば、という条件つきであるが。
ホッと一息ついて、昨日のカレル・アンチェルの話を締め括ろう。
1968年8月のソ連軍のプラハ侵攻を契機として、アンチェルは旅先から故国への帰国を断念し、カナダへの亡命を決意、トロント交響楽団の常任指揮者に就任した。
ヨーロッパ屈指の名門チェコ・フィルハーモニーとはまるで異なり、トロントの楽団は誇るべき伝統もなく、あまりにも弱体だった。前任者・小澤征爾の薫陶により、武満徹やメシアンのレコーディングで世界デビューを果たしたものの、実演となると弦楽器の響きは貧弱で濁りがち、木管も金管も技量は二流以下、ソロを吹かせると途端に非力さが露呈した。
他にもっと相応しい任地がいくらもあったろうに、と傍目には思えたのだが、アンチェルはどうやら進んでこの街とオーケストラを選んだのである。これこそわが終の棲家である、というふうに。
なんとも非情なもので、アンチェルとトロント響に録音の機会を与えるような殊勝なレコード会社はひとつも現れなかった。彼は所詮、チェコ・フィルあってのアンチェルだったのだ。こうして、われわれの視野から、ひとりの名指揮者の姿が完全に消え去ったかにみえた。
(明日につづく)