小生くらいの世代から下だと、『ティファニーで朝食を』を映画でまず観てしまった、という人が殆どではないか。ご多分に漏れず、小生もそうだ。だから、カポーティの原作を読むと、なんだか違和感がある。オードリー・ヘップバーンが演じたホリー・ゴライトリーと、小説のなかの同名の女性とがあまりにも違いすぎるからだ。
今回の村上春樹・新訳の「あとがき」にもあるように、「おそらくホリーの持っている型破りの奔放さや、性的開放性、潔いいかがわしさみたいなところが、この女優には本来備わっていない」のだろう。にもかかわらず、小説を読みながら、あの魅惑的で妖精めいたファニー・フェイスを完全に忘れることもできない相談なのである。
旧版(新潮文庫)の龍口(たつのくち)直太郎の訳文がいけなかったのだろうか。どうしても馴染めなくて、高校時代(遠い昔だ!)に読んだきり、どこかになくしてしまった。手許にあるのは家人が大学時代に読んだ文庫本で、これまたすっかり古色を帯びてしまっている。
今度の新訳を読んで、真っ先に感じたのは、(村上訳チャンドラーのときと同様)「まるで村上の小説であるかのよう」という印象だ。登場人物の会話のはしばしに、いかにもそう思わせるニュアンスが看取されるし、第一なによりも、主人公が古い馴染のバーの主人と会話しながら、切実な過去を回想する、という設定と語り口がまるきり『風の歌を聴け』そっくりだったからだ。
それにしても、かつて読んだときには「風変わりで、とてもついていけない」「どうにも鼻持ちならない嫌な気紛れ娘」としか思えなかったホリー・ゴライトリーが、なんとも瑞々しく、痛々しく、「好きにならずにはいられない」と感じさせる(ようにカポーティがちゃんと造型している)ことに、初めて気づかされた。
振舞がいかに奇矯で突飛でも、ホリーの天衣無縫な純一さが心に残る。そういうふうに、繊細な筆致と心遣いで書き込まれているのだ、ということが初めてこの小説から読み取れた。いかに彼女が「かけがえのない存在」だったのか、そして、それを見失ってしまった「僕」の喪失感の深さが、読後いつまでも残響を響かせる。同名の映画とはまるで次元の違う複雑な味わい、巧緻な魅力がそこにはある。
この調子で、村上春樹は同じカポーティの、あの比類なく瑞々しく美しい中篇『草の竪琴』を訳してはくれないだろうか。