(昨日のつづき)
プロコフィエフが初演前に第六ソナタをモスクワの友人宅で試演したとき、たまたま居合わせたリヒテル青年は譜めくり役を任されたという。その凄まじい演奏を目の当たりにして圧倒されながらも、リヒテルは密かに心に誓ったという。「いつか僕もこの曲を弾くぞ!」と。
その機会は思いのほか早くめぐってきた。プロコフィエフによる初演からわずか半年後の1940年11月26日、リヒテルは自らのリサイタルでこの新作ソナタを採り上げたのである。その演奏をたまたま客席で聴いた作曲家は深い感銘を受けた。翌41年3月9日、意気投合したふたりはプロコフィエフの十年前の旧作、ピアノ協奏曲第五番で共演を果たす。もちろんリヒテルがピアノを弾き、作曲家自身がタクトを振った(この協奏曲はその後ずっとリヒテルの十八番となる)。
こうした一連の成り行きから、リヒテル青年に寄せるプロコフィエフの信頼はすっかり揺るぎないものとなり、当然の帰結としてピアノ・ソナタ第七番の初演を委ねられたのである。
1943年1月初め、初演を半月後に控えたリヒテルはようやくプロコフィエフから楽譜を手渡された。「なんとも凄まじく魅惑的だった。僕はそれを四日間でものにした」。
リヒテル自身がこの曲に潜むメッセージを察知したか否かは定かでない。
彼はこの曲のなかに「人々と分かち合う悲しみ」を感じ取りながらも、勝利への意志や生を肯定する力を感じ取ったようである(リヒテル自身の述懐)。彼はすぐには第二楽章の主題とシューマンの歌曲との類似に気づかなかったかもしれない。だが、それも時間の問題だ。何しろリヒテルはその同じ年にソプラノ歌手ニーナ・ドルリアークと出遭って恋に落ち、二年後の1945年からは彼女のリサイタルでさまざまな歌曲の伴奏を始めたのだから…。
私事にわたるが、小生がプロコフィエフの第七ソナタをはじめて聴いて衝撃を受けたのも、ほかならぬこのスヴャトスラフ・リヒテルの演奏によってであった。
1970年9月3日、大阪フェスティバルホール。
初来日を果たしたリヒテルはこの曲をメインに据えたリサイタルを催し、その模様が三日後の9月6日、NHK・TVで放映されたのである。
(明日につづく)