(承前)
彼女のサバティカル休暇は1971年に始まり、一年以上に及んだ。
とはいえその間にも全く演奏をしなかったというわけでもなく、調子のよい時期を見計らって、フランクとショパンのチェロ・ソナタの録音まで行っている(1971年12月)。一刻も早く復帰したい。だが体調は一進一退を繰り返すばかりで、指先の痺れや脱力感はいつまでも彼女につきまとった。
1973年1月、突如として彼女の来日が公表された。夫でピアニスト・指揮者のダニエル・バレンボイム、ヴァイオリニストのピンカス・ズッカーマンと共演し、さらに同時来日するイギリス室内管弦楽団ともNHK交響楽団とも演奏するのだという(指揮はいずれもバレンボイム)。あまりに急な話なので驚いたが、何はともあれ彼女が元気を取り戻したのは同慶の到りと素直に喜んだ。
発表された彼女の演奏日程は以下のとおり。
4月10日(火)・11日(水)「NHK交響楽団定期演奏会 B」/東京文化会館
ドヴォルザーク: チェロ協奏曲4月12日(木)「イギリス室内管弦楽団演奏会」/厚生年金会館
ハイドン: チェロ協奏曲 第一番 ハ長調4月17日(火)「ピアノ三重奏の夕」/郵便貯金ホール
ベートーヴェン: ピアノ三重奏曲 第五番「幽霊」、第七番「大公」4月18日(水)「チェロ・ソナタの夕」/郵便貯金ホール
ブラームス: チェロ・ソナタ 第一番
ベートーヴェン: チェロ・ソナタ 第三番
フランク: チェロ・ソナタ迷うことなど何もなかった。すべての公演に足を運ぼう。エルガーの協奏曲が含まれないのはちょっと残念だけれど、どれも彼女がディスクにも入れ、自家薬籠中のものとした曲目なのだから文句はない。ともあれ、ようやく夢が叶う。彼女のチェロが生で聴ける歓びは何物にも代え難い。N響の定期会員になるのも吝かでないぞ。
切符の入手は困難を極めた。早朝から並んでなんとか獲得したのは室内楽の日だけで、協奏曲についてはそれぞれN響と都民劇場の会員になる手続きが必要だ。東奔西走した挙句、ようやく全日のチケットが揃ってほっと一安心。ドヴォルザークの協奏曲の日は最前列左方という、彼女を「観る」のに絶好の座席が手に入った。
ところがちょうど同じその頃、われわれは知る由もなかったのだが、彼女はかつてない困難に遭遇していた。それは演奏家生命にかかわる危機であった。
休養期間を終えて演奏活動に復帰した彼女は1973年1月、アメリカへ公演旅行に出た。観客はいつもどおり熱狂的に迎えたが、批評家たちは彼女の演奏が以前の柔軟さと輝きを失ったことに懸念を表明した。両手の痺れは回復するどころかむしろ進行しており、闊達なボウイングや指板での円滑な移動の妨げとなった。
2月にロンドンでエルガーの協奏曲を弾いた実況録音(非正規盤)を聴くと、彼女が変調をきたしていることが窺われる。そのあと再び渡米してニューヨークでバーンスタインと共演したときは、指の感覚はほとんど麻痺し、弓を支えるのがやっとという有様だったという。
そして4月初め。新聞紙上に彼女の来日公演がすべて取り止めになるとの急告が掲載された。
彼女が出演するはずだった演奏会は内容が大幅に変更になった。
ドヴォルザークの協奏曲はバレンボイムによるブラームスのピアノ協奏曲第一番に。
ハイドンの協奏曲はズッカーマン独奏によるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第五番に。
「三重奏の夕」「ソナタの夕」は中止してチケットを払い戻し、バレンボイムのピアノ独奏会に。
あまりのことに唖然としつつ、それでも渋々演奏会場に足を運んだ。協奏曲の日は払い戻せない決まりだったのである。
N響をいかにも見下したようなバレンボイムの驕慢な態度に嫌気がさし、もううんざりだと思いつつ、仕方なく12日のイギリス室内管弦楽団の演奏会にも出かけていった。これまた感心しない出来だったのだが、なんとなく虫が知らせたのだろうか、終演後もしばらく会場の厚生年金会館前に未練たらしく屯していた。そのときだった。
楽屋口からバレンボイムが姿を現したかと思うと、すぐそのあとを長身の金髪女性が続く。間違いない、彼女だ。演奏は取りやめたものの、来日だけはしたのである。そしてそのうしろからズッカーマンが追う。三人は小生のすぐ前、ほんの一メートルほどのあたりを左から右へと通り過ぎ、待たせてあったタクシーに乗り込んで、そのまま走り去った。その間、二十秒ほどであろうか。
ほんの一瞬の取るに足らぬ体験でしかなかったが、その後の人生で、この「歩く映像」を何度プレイバックさせたことか。ついに実演を聴くことは叶わなかったが、とにもかくにも小生は彼女ことジャクリーヌ・デュ・プレの「動く姿」をこの目で見たのである。後生大事に繰り返し脳裏に思い浮かべているうち、記憶のなかの映像はすっかり色褪せ、彼女がどんな色のドレスを着ていたかは、もはや思い出せない…。
やむをえない、恥を忍んで当日の走り書きメモを引用しよう。あまりにも稚拙な文なのだが、いくばくかの歴史的価値に免じて寛恕されたい。
1973年4月12日
演奏会が終わって、そう、九時十五分過ぎ頃だろうか、会場前にバレンボイム、デュ・プレ、ズーカーマンの順に現れた。デュ・プレは緑と白の柄のワンピース(長袖、裾はややミニ)、白い靴、ストッキング、パール(?)のネックレスのいでたち。そして例の金髪。どこか幼げなあの表情、でもどこか悲しげ。「大きな人だなあ」というのが第一印象。バレンボイムとはまさに蚤の夫婦。足早に車に乗り込む。[車中で彼女が]ズーカーマンのヴァイオリンを持ち上げて前の座席に移すところをみると、右手は大したケガではなさそうだ。ほんの十数秒の間のこととて、漠たる印象ではあるが、これがともかく、わがデュ・プレとの最初の邂逅である。(同夜に記す)「最初の邂逅」どころか、これが彼女との永遠の別れだった。
(つづく)