はるばる葉山までやって来た。電車三本とバスを乗り継いで二時間半。空は気持ちよく晴れている。遠出にはうってつけの陽気だ。
逗子駅でバスを待っていたら東京新聞の中田嬢と田中嬢に声をかけられる。そうだ、今日から始まる展覧会「イリヤ・カバコフ『世界図鑑』 絵本と原画」は同社の主催なのだった。車中おふたりと四方山話をしていたら、ほどなく窓外には相模湾が開け、ヨットが青空を背に颯爽と帆走している。素晴らしい眺めだ。十五分ほどで神奈川県立近代美術館 葉山に到着。
まだ昼には間があるので、まずは展示をじっくり観る。入口でいきなり担当学芸員の水沢氏、籾山氏とすれ違う。展示室に入ると鴻野わか菜さんに挨拶させる。これら三人が本展の仕掛人なのだ。準備期間におそらく五年はかかっているのではなかろうか。
会場に入ると、夥しい数の絵本はジャンルごとに「生活」「科学と生活」「イデオロギー」「物語」「詩」「オーシャと友達」の六区画に整然と分けられ、まず絵本の現物(表紙)、そして額装された原画、絵本を見開きごとに要約紹介するヴィデオ映像、という手順で、一冊一冊丁寧に紹介されていく。まあ、オーソドックスな「絵本原画展」のやり方なのであるが、展示がおそろしく綺麗なので、思わずピッと背筋を伸ばして黙々と観て歩く。
カバコフの絵本は神保町のナウカで80年代以降これまで何度も遭遇している。どれも一冊300~500円位で買えたのだが、正直なところ食指が伸びたことは一度もない。型に嵌まった描写、奇妙に明るく嘘っぽい色調、濫用される縁取りや枠組、すべてが気に入らない。一言でいえば陳腐の極みに思えたのである。まあ、戦後のソ連絵本に感心することは稀なので、「この程度の技量でも生活できたのだなあ」「この男は何が面白くて絵本を描いているのか」と、そんな具合に軽視していた。
そうした印象は今回の展示(絵本100冊、原画1,000枚!)を通覧したからといって変わるものではない。思いのほか作画が丹念で、スタイルをさまざまに工夫した形跡もあるのだが、表面的な綺麗事に終始し、描写の底がいかにも浅く、何よりも「子供への眼差し」を欠くのが絵本画家の資質としては致命的だ。
初期(1960年代)の作品ではウラジーミル・コナシェーヴィチ(革命前の黎明期から戦後まで活躍した絵本画家の巨匠)の影響が見え隠れしていることに気づく。
ざっと観おわったあと、分厚いカタログを購入。午後一時から講堂でカバコフ自身と批評家のボリス・グロイスとの対談があるというので、ちょっと予習しておきたかったのだ。カタログは3,800円くらいしそうな大冊だが、2,500円なのだというので吃驚する。これは出血サーヴィスではないのかな? 絵本全冊に懇切丁寧な解説がつくのもありがたい(鴻野、籾山両氏の労作だ)。
さっそく水沢、鴻野両氏の論文を読む。いずれも読み応えのあるものだ。水沢氏は現今の現代美術家としてのカバコフからかつての絵本作家カバコフへと遡及し、展覧会実現の経緯を語る。今回の展覧会タイトル、コメニウス(コメンスキー)の名著に因む ORBIS PICTUS(世界図鑑)は水沢氏の命名になるものだという。鴻野さんの論考はカバコフ作品における「ユダヤ的なるもの」に着目した示唆に富む内容だ。もう十年ほどもカバコフを追い続けてきただけあって、水も漏らさぬ周到な論の展開にほれぼれする。
自作を解説したカバコフの文章は長大なので後回しにし、冒頭のボリス・グロイスの論考を急いで予習する。イメージとテクストの齟齬こそがカバコフ芸術の根幹にあること、ソ連における「子供時代」はユートピアそのものであり、後年のカバコフのインスタレーションにその原イメージが回帰すること、などを指摘した短いもの。一読しただけでは充分理解できないのは小生の頭の問題なのであろう。
一時少し前、講堂に入ると、もうあらかた満席だ。今日わざわざ初日に展覧会を観に来たのはひとえにこの対談を聴くことが目的である。グロイスは永くカバコフの代弁者もしくは「理論的支柱」をもって任じており、ロシア・アヴァンギャルドと社会主義リアリズムは同質同根であると喝破して物議を醸した論客である。定刻とともに対談が始まる。お二方が交互に物静かに語り出す。ロシア語の響きが耳に心地よい。
ご両人の言い分は微妙に食い違っていて、そのズレが面白い。「わしは生きるために仕方なく絵本作家になったんだ、子供のためじゃなく、出版社のため、編集者のために働いたのさ。ときにはテクストを読まずに絵を描いたこともある」と自嘲気味に告白するカバコフ。「いやいやその空虚さこそは、スターリンに弾圧された文学集団『オベリウー』の不条理性に近しいもの。カバコフの無意味性はマレーヴィチのアロギズムにも通じるのである」と理屈づけるグロイス。う~ん、そんなものかなあ、それって過褒じゃないのかなあ。グロイスは今回の展示についても、「テクストを伴わない挿絵はもはや独立した作品であり、それ自体が完成したものと感じた。余白の紙白にスプレマチズムの『白』を看取した」とまで評する。おいおい本気かよ、そこまで言うか、とちょいと茶々を入れたい気持ち。絵本原画に余白はつきものなのである。
三時近くまで対談は続き、そのあとエントランスに移動して展覧会の開会レセプション。小生はこういう場が苦手なので早々に失礼したかったのだが、足利市立美術館の江尻潔さん(「幻のロシア絵本」展の巡回時に世話になった)、ロシア児童文化研究家で雑誌『カスチョール』同人の田中友子さんと絵本研究に携わる文教大学の中川素子さん(おふたりは姪・叔母の間柄)、19世紀末ロシア美術史研究家の福間加容さん(美術館時代、学芸員実習で彼女を教えたことがある)からつぎつぎに声をかけられ、そのままずるずる居続けるハメになった。
高台のテラスで海風に吹かれながらワインを飲みつつ美味しいツマミをいただく。ちょっとしたガーデン・パーティの趣きだ。この美術館のオープニングはいつもこの方式なのだという。
結局五時頃まで居続けて、上記の福間さんと一緒のバスで逗子駅へ。夕暮時の海岸がたいそう美しかった。
帰宅したらもう夜八時過ぎ。さすがにへとへとに草臥れた。いろんな人と会うのは愉しいが疲れるのだ。やっぱり展覧会は普通の日にひとりでゆっくり観るに限る。