さしもの猛暑にも翳りがみえてきた。もう「夏をしのぐ音楽」でもあるまい、という気もするが、いつなんどき暑さのぶり返しがあるかもわからないので、もう少し続けよう。
ロパルツ、ディーリアス、ダンディ、ベルリオーズと辿ってきて、そうだ、肝腎の曲を出し忘れていたことに思い当たった。
エドワード・エルガーの歌曲集『海の絵 Sea Pictures』(1899)がそれである。
エルガーといえば行進曲「威風堂々」、あるいは「愛の挨拶」ばかり人口に膾炙してしまったが、二曲ある交響曲も渋いけれど聴き応え充分だし、弦楽合奏のための「序奏とアレグロ」や「セレナード」なども甘美な名曲だ。チェロ協奏曲はシューマンやドヴォルザークに並ぶ傑作の誉れが高いし、ヴァイオリン協奏曲だって悪くない。
いやいや、エルガーの真髄は大掛かりな合唱曲にこそ存する、という意見もあるのだが、それは多分に英国人ならではの見解であって、小生の耳にはそれらはいささか重苦しく聴こえる。
同じエルガーの声楽曲を聴くのなら、断然この歌曲集『海の絵』がお勧めである。英国同様、四方を海に囲まれた島国の住人ならば、この小さな楽曲のなかに、懐かしい潮騒の響きと浜風の薫りを感じとって、ふうっと心なごむこと必定なのである。
多くの音楽好きがこの歌曲集の存在を知ったのは、ジャネット・ベイカーが歌い、ジョン・バルビローリが伴奏指揮を務めた演奏を通してであった。小生の場合はといえば、その初出LPとリアルタイムで遭遇した世代である。ジャクリーヌ・デュ・プレ(芳紀十八歳!)が奏するエルガーのチェロ協奏曲がアルバムのA面を占め、ベイカーの『海の絵』はB面でその後塵を拝するという按配。日本盤の発売は英国に一年遅れをとって1966年の8月だった(エンジェル AA-7617)。
もっとも、当時わが国では英国音楽の愛好者は数百人いるかいないかの段階だったろうから、このLPはまるきり話題にならなかったと思う。それが証拠に、この日本盤を中古で捜そうとするとえらく難渋する。小生は三十年も探し続けて、ようやく一枚手にすることができた次第だ。
閑話休題。何はともあれ、この日本盤が出てから四十年が経過し、その間にわが『海の絵』もじわじわと浸透し、少しは認知されるようになった。ごく稀にだが実演で聴く機会にも恵まれた。
先ほど書庫から懐かしいこのLPを引っ張り出してきたので、佐藤章さんの楽曲解説を少しだけ書き写させていただこう。
歌曲はエルガーの作曲表の中でとくに重要な部分を占めるものではありません。それどころかエルガーが歌曲作曲家としては決して一流の存在ではなかったことは一般に認められている事実です。しかしアルトと管弦楽のための5つの曲からなる "海の絵" は例外で、この分野におけるエルガーの最も傑出した所産ということが出来ましょう。
"海の絵" はエルガーが42才の1899年7月の作品で、同年10月5日ノリッジ音楽祭でクララ・バットを独唱者として作曲者自身の指揮で初演されました。"エニグマ変奏曲" とほぼ同じ頃、充実した創作活動の時期の作品です。エルガーはここで詩の言葉がもつ韻律やアクセントよりも、それぞれの詩の精神に深く沈潜し、詩の雰囲気を見事に音楽に表現しました。…
まさにそのとおり、エルガーはほかにろくな歌曲を残しておらず、この歌曲集『海の絵』は彼の作品表のなかで「最も傑出した所産」として、飛び抜けた存在なのである。
高校生のとき、たまたまラジオから流れてきたこの曲の演奏(出たばかりだった上述のジャネット・ベイカー独唱盤LP)に魅せられ、例に拠って上野の東京文化会館の資料室でこれを試聴し、全歌詞をノートに書き写した。独仏の芸術歌曲と違って、歌詞が英語というのが嬉しかったし、第一この歌曲集が採り上げている詩は、田舎の高校生にも理解できる程度に平易な英語で綴られていた。
今にして思えば、テクストはどれも平凡な出来で、正直なところ、どこがどうという内容ではない。ところが、ひとたびエルガーがこの五つの詩に付曲し、精妙なオーケストレイションを施すや、そこに魔法のような力がはたらいて、眼前にはたちどころに穏やかな海景がひろがり、寄せては返す波音と潮の香りがあたり一面にたちこめる。イギリス人なら誰もが肌で感じている海への憧れや親近感を、なんの屈託や衒いもなく率直に謳い上げたという点で、この歌曲集にはかけがえのない値打ちがある。小生はずっとそう信じ、愛し続けてきた。
1. 海の子守唄 Sea Slumber-Song 詩/ローデン・ノエル
2. 港で (カプリ) In Haven (Capri) 詩/キャロライン・アリス・エルガー(夫人)
3. 安息日の海の朝 Sabbath Morning at Sea 詩/ブラウニング夫人
4. 珊瑚礁のあるところ Where Corals Lie 詩/リチャード・ガーネット
5. 泳ぐ人 The Swimmer 詩/アダム・リンジー・ゴードン
まずは試みに第一曲の「海の子守唄」を聴いてごらんになるがいい。
Sea-birds are asleep,
The world forgets to weep,
Sea murmurs her soft slumber-song
On the shadowy sand
Of this elfin land;
I, the Mother mild,
Hush thee, oh my child,
Forget the voices wild!
Hush thee, oh my child,
Hush thee.
ほらね、まるきり辞書要らずでしょう? ちなみに elfin は「妖精」です。
(まだ書きかけ)