今宵、意を決して飯田橋のギンレイホールで『今宵、フィッツジェラルド劇場で』を観た。これがロバート・アルトマンの遺作であるという感慨を抜きに観ることはもはや不可能だが、そうした積年の想いを抜きにしても、これは凄いフィルムだ。
『プレタポルテ』(1994)以降の作品を見逃しているので、アルトマンの晩年の軌跡を辿り直すことができないのが残念だが、小生の知る限りでは、この作品は間違いなく『ナッシュビル』(1975)によく似ている。いや、正確に言うならば、アルトマン以外のどんな監督の映画にもこれと類似したフィルムは思い当たらず、似通った作品を探すと、結局『ナッシュビル』に行きついてしまうのだ。プロットらしいプロットもなく、大勢の登場人物がひたすら歌い、しゃべり、泣き笑いする。それでいて、これこそ映画なのだ、という悦ばしい確信がむくむくと湧き上がってくる。
心臓移植後のアルトマンは常に健康に問題を抱えており、白血病も患っていたというから、本作を撮りながら、これがひょっとして遺作になるかも…という予感が監督にあったことは否定できないだろう。死神=死の天使とおぼしき女性が重要な役どころで登場し、「老人の死は悲劇じゃない」などという台詞を吐く。いささかアルトマンらしからぬ設定で、ドキっとさせられるし、違和感は拭えない。とはいえ、最終的に死の悲しみは乗り越えられ、すべては唄と笑いで締め括られるのであるが…。
三十年続いたラジオ番組がついに最終回を迎え、その公開放送のため常連のカントリー歌手たちが「フィッツジェラルド劇場」に集い、賑やかに歌い、想い出を語らう──というのがこの映画の大枠の物語。誰もが少しばかりしんみりしつつも、徒に悲壮ぶる者はおらず、いつものように無駄話に興じ、ふざけあい、洒落のめし、笑い飛ばそうとする。「泣くのは嫌だ、笑っちゃおう」というわけだ。このどこまでも陽気で融通無碍でノンシャランな雰囲気こそ、『ナッシュビル』の、『ウエディング』の、『ビッグ・アメリカン』の世界に直結する。アルトマンはやっぱりアルトマンなのだ。
登場する歌手たち、裏方たちの表情が実にいい。とても演技とは思えない自然さ、誰もが素のままをキャメラに晒しているようにしか見えない。いかにもアルトマン好みの女優リリー・トムリンと、どうにも非アルトマン的な存在のはずのメリル・ストリープとが、こともあろうにカントリー歌手姉妹に扮し、いともたやすく作中人物になりおおせてしまう。なんとも奇蹟的な光景である。
今日はこれくらいにしておこう。かつて一度でもアルトマン映画に心揺さぶられた人なら、是非ともこの映画を観に足を運ぶべきである。そして心のなかで、このタフで図太く、繊細で心優しい監督に、感謝の念をこめて別れの挨拶をしよう。あくまでも、さりげなく、ノンシャランに。