午前中、所用で上野の芸大美術館(東京藝術大学大学美術館)に出向いたので、陳列館で開催中の展覧会「自画像の証言」をざっと眺める。歴代の芸大卒業生が大学に残した自画像165点がずらり並ぶさまはさすがに壮観だ。この展覧会は主催にNHKが名を連ねており、先日ETVスペシャル枠で特番を組んでいた。正直なところ、展示自体はその番組ほどには楽しめなかった。個々の自画像が醸し出すドラマは画面の背後に退き、むしろ若さゆえの自意識過剰がどの絵からも漂う。
これらの自画像群のうち、第二次大戦以前の作品は、長らく劣悪な環境のもと、埃と湿気と黴に傷めつけられていたという。それらを時間をかけて丁寧に修復し、展示可能な状態にもっていく。芸大の保存修復部門の地道な努力こそが本展の隠れた主役なのである。
そのあと昼を挟んで、今度は竹橋の近代美術館(東京国立近代美術館)へ。ここでもちょっとした用事を済ませたあと、常設のごく一部、四階の特集展示「モダン都市TOKYO──昭和初期の風景」と二階の企画展示「崩壊感覚」をさらりと拝見。近代都市の勃興と消失を物語るようで、期せずして好一対をなす展示といえるかもしれない。作品数が少なく、予定調和的な内容の前者は期待外れだったが、後者は観る者の想像力に働きかけ、なかなかに刺激的。ピカソやクレーの分析的・分断的イメージに始まり、恩地孝四郎、駒井哲郎、初期の河原温、石内都(「連夜の街」)などを経巡ったのち、宮本隆司の連作写真「神戸1995」で締め括られる。
展示のじんわりとした余韻を味わいつつ、別棟のブックショップで平積みになった長田謙一編『戦争と表象/美術 20世紀以後』(美学出版、2007)という大部の書物をみつけ、ちょっと立ち読み。昨春、東京で開かれた国際シンポジウムの記録集だ。わが畏友の木村理恵子さんや鴻野わか菜さんが発表されるというので、小生も客席で拝聴したものである。
ずいぶん立派な本に仕上がったものだ、と感心していたら、背後から「沼辺さん!」と呼びとめられる。驚いたことに、そのシンポジウムの主宰者でこの本の編者でもある長田謙一教授ご本人がそこに立っておられるではないか! 用事があって美術館に寄った帰りなのだという。あまりにもできすぎた偶然に、しばし言葉を失った。
お目にかかるのは久しぶりなので、美術館のカフェで小一時間ほど歓談。
実は昨年十一月、当ブログで芸大の美術館で開催された斎藤佳三の展覧会を取り上げた際に、そのカタログの内容にケチをつけ、長田論文を名指しで「詰めの甘さが目立つ」と書いてしまった(
→ここ)。長田教授はそのエントリーをお読みになったそうである。寛大な教授はにこやかに「あれは自分でも不満足な論文なので、貶されても仕方ない」とおっしゃる。お怒りではないようなので、内心ホッとする。ブログって奴はこれだから怖い。ご当人の眼に触れることもあるのだから。
その斎藤佳三の業績も含め、近代日本の舞台美術史はほとんど探索されていない未踏の分野である。「もっと誰かがしっかり研究しなければいけない、沼辺さん、ぜひおやりなさい」と叱咤激励される。う~ん、そう言われても困る。小生もまるで門外漢、五里霧中のありさまなのである。
神保町方面まで歩く、という教授に同行して駿河台下の交叉点までご一緒し、そこでお別れした。先日の佐藤真砂女史といい、本日の長田教授といい、このところ励まされてばかりだ。
だらけきった小生の日常に喝を入れようという、これは天の配剤なのであろうか。