夏の暑さをしのぐための音楽といえば、何を措いてもエクトール・ベルリオーズの歌曲集「夏の夜 Les Nuits d'été」がまず念頭に浮かぶ。そのものずばりのタイトルもさることながら、それぞれの歌が醸す甘やかで静謐で内省的な味わい、しかもどこかひんやりとした抒情は、真夏の夜更けにひとり心静かに耳を傾けるのに、いかにも似つかわしい音楽であろう。
ところが、いざこれを取り上げようとして、はたと考えあぐねてしまった。そもそも、なぜこの曲集は「夏の夜(夜は複数形)」と題されたのか。
ベルリオーズは同時代の友人で評論家仲間でもある詩人テオフィル・ゴーティエの詩集から愛の歌ばかり六篇を拾い出し、つれづれ折に触れて付曲していった。六曲が歌曲集としてまとめられ出版されたのが1841年(ピアノ伴奏版)、それを後年に手直しし、音域を改め管弦楽伴奏版に仕上げたのが1856年。驚いたことに、選ばれた六つの詩のなかに、「夏」という語句はおろか、この季節を想起させるような表現がひとつとして発見できないのである。それどころか、第一曲「ヴィラネル」では、はっきり「春が来たよ、わが美しいひと」と別の時節を謳ってさえいる!
一体全体、この歌曲集のどこが「夏の夜」なのか。理屈からはサッパリわからない。にもかかわらず、漠然と音楽の流れに身を任せていると、そこはかとなく、夏の宵の気だるさが忍び寄るようだ。暗闇のなか、夢想と懐旧の情に身を任せ、夢うつつの境をさまよう心持ちがする。そうなるともう、「夏の夜」以上に相応しいタイトルは考えることができない。
歌曲集「夏の夜」にはもうひとつ、悩ましい問題が付き纏う。
今日ではこの歌曲集はひとりの歌手(おおむねソプラノかメゾソプラノ)が全曲を通して歌うのが通例になっているが、果たしてそれでいいのか、という問題である。
それはベルリオーズが管弦楽伴奏の「決定版」譜面を完成させたときに端を発している。彼はそれぞれの曲頭に、歌われるべき声域を次のように明記した。
1.
ヴィラネル Villanelle (原詩「律動的なヴィラネル」)
メゾソプラノまたはテノール
2.
薔薇の亡霊 Le Spectre de la rose コ
ントラルト
3.
入江のほとり Sur les lagunes (原詩「漁夫の唄])
バリトン、コントラルトまたはメゾソプラノ
4.
君なくて Absence
メゾソプラノまたはテノール
5.
墓地にて Au cimitière (原詩「ラメント」)
テノール
6.
未知の島 L'Ile inconnue (原詩「舟歌」)
メゾソプラノまたはテノール
かてて加えて、ベルリオーズはそれぞれの歌の声域にあわせ、親しくしていたワイマール宮廷の歌手(男女とりまぜて)に別々に献呈までしている。作曲者の念頭にはひとりの女性歌手が六曲を歌い通すという発想はなかったらしい。少なくとも最終的な管弦楽伴奏版では確実にそうだったといえそうである。
この事実はかなり以前から知られており、例えば1970年初頭にフィリップスから出たコリン・デイヴィス(当時はベルリオーズのスペシャリストと目された)指揮によるLPでは、実際にこの歌曲集をソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バスの四人に振り分けて歌わせていた。事情を弁えなかった小生は、当時これを「なんという奇妙なことをするのだろう」と訝しく聴いたものだった。
(8月21日へつづく)