恐ろしく暑い夏の盛り、今年もこの日がやって来た。終戦後七年目に生まれた小生は、この戦さを遠い過去の出来事とは思えずに今日まで生きてきた。
七月の終わりに小田実が亡くなった。もうずいぶん長いこと彼の存在を半ば忘れてしまっていた。たまにTVで見かけても、いかにも不機嫌そうに早口で語るその表情に、もはや昔のように共感を抱けなくなっていた。
その業績については未だ定まらず、毀誉褒貶がおそらく半ばするだろう。
それでも彼は偉かった。戦争をするな、殺すな、戦争に加担するな、と終生ずっと変わらず叫び続けたからだ。それだけは「ベ平連」の頃から実に一貫していた。今の時代、一筋に貫いて生きることのなんと難しいことよ。
国家ではない、市民なのだ、と彼は言った。ひとりひとり、名も無い私たちこそが時代の主役なのだ、と彼は主張し、行動した。ニッポン国がベトナム戦争に加担したからといって、私たちが加担しなければならぬ謂れはどこにもない。大切なのは国籍なんかじゃない、人間として何ができるか、何を信じるか、なのだと。
もちろんそれはきわめて困難な茨の道だったろう。その後のわが国の市民運動は小田が夢見たようには進まず、遅々として成長も成熟もしなかった。晩年の彼の疲れきった苦渋の表情はそれゆえだったのかもしれない。
小田実の遺した著作のなかで最も忘れがたい一冊、それは彼が友人たちと編んだ次の書物だ。
小田実・鶴見俊輔・吉川勇一編 『市民の暦』
朝日新聞社、1973
一年三百六十五プラス一日、今日という日はどんな日なのか、それを国家の視点ではなく、どこまでも市民の視点から記述しようという画期的な試みである。同書「まえがき」から引く。
[…]政府は二月一一日を建国記念の日にきめ、一方、五月三日の憲法記念日にはなんの行動もせずに、この日の意味を忘れさせようとしています。こうした政府の意図に左右される暦、国家のがわから市民におしつけられる暦ではなく、市民が自分の手でつくりだしてゆく、市民の暦を編んでみよう、ということになったのです。
試みに八月の暦から項目のみを拾ってみると、
1日
▼ソウルで韓国軍隊解散式、義民運動おこる(1907)▼山谷で住民三千人が暴動、交番に投石放火(1960)▼釜ケ崎で群集二千人が暴動、警官隊と衝突(1961)
2日
▼政府、シベリア出兵を宣言(1918)▼「トンキン湾事件」おこされる(1964)▼「脱走兵通信」創刊される(1969)▼東京の銀座、新宿などで「歩行者天国」はじまる(1970)
3日
▼煙草景品の誇大宣伝で店破壊される(1897)▼富山県に米騒動はじまる(1918)
4日
▼日本最初の教員組合「啓明会」生まれる(1919)▼学童集団疎開第一陣、上野を出発(1944)▼閣議、国民総武装を決定、各地で竹槍訓練がはじまる(1945)▼枚方市の団地に「香里ヶ丘文化会議」発足(1960)▼革マル派の学生、集団リンチで死亡(1970)
5日
▼相模原からの米軍戦車輸送阻止闘争はじまる(1972)▼那覇港でコバルト六〇の汚染検出(1968)
…とまあ、こんな具合。詳しくは個々の項目を読んでいただくほかないが、とにかく徹頭徹尾「市民にとって意味のある出来事」を拾い出そうとする姿勢は、タイトルだけからも窺うことができよう。
執筆者は編者三人に加え、阿奈井文彦、宇井純、小沢遼子、小中陽太郎、山口文憲といった周辺人脈から、家永三郎、石垣綾子、市川房枝、五木寛之、梅棹忠夫、永六輔、開高健、加太こうじ、木下順二、陸井三郎、桑原武夫、五味川純平、司馬遼太郎、城山三郎、杉浦明平、瀬戸内晴美、土本典昭、戸村一作、中川五郎、中野重治、中村武志、奈良本辰也、野間宏、羽仁説子、正木ひろし、松田道雄、無着成恭、むのたけじ、吉野源三郎などなど、実に三六七名(!)にも及んでいる。
この頃はとんと見かけない本ではあるが、これこそ一家に一冊、備えておいて損はない。粟津潔が装丁した派手やかな表紙なので、古本屋で探しやすいかもしれない。
今わが家にあるのはこの本の二代目。一冊目は愛読しすぎて背が壊れ、バラバラに分解してしまった。
さて八月十五日。わが家ではもうひとつ、家人の誕生日でもある。
さあ、そろそろ今夜のディナーの準備にかからねばなるまいて。