あれはいつのことだったか、家人と暮らし始めて間もない頃、おそらく1980年か81年の真夏だったのだろう。ふと思いたって尾瀬に出かけた。まだ独身だった友人のY君を誘っての気楽な三人旅。小生はカメラとスケッチブックを、Y君は8ミリカメラをそれぞれ携えて旅に出た。
生憎の雨模様のなか合羽を身にまとい、ぬかるむ山道を抜けると視野が開け、尾瀬沼が見えてきた。その頃から雨もようやく降り止み、宿泊地の長蔵小屋に着くと、雲間から美しい夕焼けが望まれた。Y君はさっそくカメラを回して山の端に沈む夕陽を撮影した。
そのあと、山小屋で旅装を解いた宿泊者全員が隣接するヴィジターセンターに集まり、簡単な諸注意のあと、尾瀬の自然保護に関する記録映画を観る。一時間ほど経過しただろうか。
外へ出たらもう真っ暗。地上には小屋の灯のほか光は一切なく、周囲は漆黒の闇。互いの顔も見分けられないほどだ。小屋から漏れる明かりを頼りに歩を進め、ふと上方に眼をやった。
その瞬間の驚きは一生忘れることができない。
全天を数え切れないほどの星が覆い尽くす。満天の星空とはこのことだ。月並みな印象だが、まるでプラネタリウムの夜空のよう。あまりにも星が多すぎて、天文少年だったはずの小生も、サソリ座が見つけられない。
驚いたのは、生まれて初めて天の川が明瞭に見分けられたこと。埼玉や東京の明るい夜空では銀河など見えたためしがなかったのだ。さすがに山奥の夜空はまるで違うなあ。
さらに吃驚したのは、地上の山並のシルエットが、星空を背景にくっきりと辿れたこと。ある地点から下が真の闇になるから、ああそこに山があるのだな、とその形状が判別されるのだ。
そのあとに真の驚異が待ち受けていた。
見上げた空にハラリと星が流れる。明るく長く流れて山の彼方へ消えた。
と、またひとつハラリ。今度は別の方角へ、短く、だがやけに明るい光芒を伴って流れた。
すると、またしてもハラリ。あちらでもハラリ。こちらでもハラリ。
なかには彗星のように長々と尾を引いて悠然と流れるのもある。
勘定したわけではないが、一分間に五つか、ひょっとすると十ほども流れたのではないか。流れ星に願い事を唱えると叶う、というけれど、これでは願い事のし放題、叶い放題だなあと思う。
流星の正体は空間を漂う宇宙塵、すなわち石ころの類いで、それが地球の引力で落下し大気圏に突入する際に燃えて光る。だから夜空の星とはなんの関係もないのだが、そう知りつつも、こんなに流れては夜空の星が無くなってしまいはしないか、とふと不安になる。それほど気前よく、雨あられと地上に降り注ぐのである。
呆然と、言葉もないまま、われわれは三十分ほど佇んでいただろうか。
あれから幾星霜。優に四半世紀が過ぎ去った。
今夜(13日から14日にかけての夜)、あのとき尾瀬で観たのと同じペルセウス座流星群と久しぶりに再会した。毎年この頃に必ずやってくるのだというが、今年はちょうど月のない新月の夜にあたっていて、絶好の観測日和なのだという。家人がたまたまBBCのネットニュースでそれを知り、それならば、と近くの公園で一時間ほど夜空を眺めてきた。
さすがに尾瀬とは違い、星降る夜とは程遠かったが、それでも六つほど、鮮やかな光芒を確認できた。なかには、あのときと同様、長く尾を引いて、軌跡が残像のように残るのまであった。花火大会などとは比較にならない。厳かで壮大で神秘的、それでいて音ひとつない天空スペクタクルに心の底から感動した。
今からでも遅くない。北東の中天、カシオペア座のWの下あたりから、四方八方に飛び散る。ぜひご覧になるといい。雲ひとつない今夜が見頃ですよ。
(追記)
そう書いてしまった手前、すぐに寝てしまうのも気が引けたので、二時半から三時過ぎまで再び公園で夜空を仰いだ。見えた流星は五つ。どれも短く流れて消えてしまったが、明るさは申し分ない。ただし、ペルセウス座の位置がさっきよりずっと高く、見上げていたら首が痛くなってきた。
東の空から冬の星座であるはずのオリオン座が横倒しになって(ということは三ツ星が縦一直線に)昇ってきたのに、ただもう訳もなく感動してしまった。