(承前)
さて一昨日(8日)のエントリーの続き、医学史小説『外科の夜明け』について。
少年時代に読んでいたく感銘を受けたこの塩月正雄訳は、東京メディカル・センターという聞き慣れない版元から1966年に出たあと、1970年代に講談社文庫に入ったが、ほどなく絶版になってしまい、どちらも今ではほとんど見かけない。こんなに面白い本なのに残念だなあ、とつねづね思っていたところ、つい最近になって別の訳者による新訳が出ていることに気づいた。
ユルゲン・トールヴァルト著、小川道雄訳
『外科医の世紀 近代医学のあけぼの』
へるす出版、2007
以前の塩月訳との決定的な違いは、こちらはドイツ語のオリジナル完全版からの翻訳であるという一点だろう。前の『外科の夜明け』は読者を捉えて放さない達意の名訳だったのだが、惜しいことに英語からの重訳であり、部分的にカットのある短縮版だったらしいのである。
たしかに読み出してすぐわかるのだが、黎明期を物語る冒頭の章「ケンタッキー」は初めて目にするものだ。まだ途中なので(なにしろ五百頁近い大著なので)確言はできないが、そのあとの章ではほとんど差異に気づかなかった。訳の読みやすさでは遜色ないものの、塩月訳の畳みかけるようなリズミカルな歯切れのよさにはちょっと及ばない。
残念なのは、これだけの長丁場を「横組」で読まねばならぬこと。日頃、展覧会カタログなどで当然のように横組に触れているにもかかわらず、長篇小説ともなるといささか勝手が違う。とても読み辛いのだ。へるす出版は医書専門の版元らしいのでなんの疑問も抱かずこの組を選択したのだろうが、これはちょっと不親切な判断だったのではないか。
とまあ、ケチをつけてしまったが、四十年ぶりにこの傑作が新訳で手に取れる歓びは小さくない。たっぷり時間のある夏季休暇にでも、一気に読了されることをお奨めしたい。誰しも、ああ、19世紀に生まれなくて本当に良かった、と実感されるだろう。なにしろ、ほとんどの内臓疾患が地獄の苦しみをもたらし、死に到らしめる病だったのだから。
読み出したら最後、手に汗握るスリリングな展開に一喜一憂、もうやめられなくなりますよ。