子供の頃から食事を残すのは「許しがたい罪悪」と信じてきた。
戦中・戦後を体験した両親に育てられたせいか、最後のご飯粒まで食べきらねばいけない、とそう思い込まされてきた。「残したらお百姓さんに申し訳ない」なんて台詞も聴かされた憶えがある。
小学校の給食も六年間ずっと完食したばかりか、クラスメイト誰もが忌み嫌う脱脂粉乳をお替わりしたりもした。級長だったから、皆に模範をみせないといけないと考えていたのか。なんという嫌味な少年なのだろう。
三つ子の魂百まで、というが、長じてからもこの習性はずっと変わらなかった。これまで五十五年間生きてきて、出された食事(あるいは注文した料理)を残したことはほとんど皆無に近い。
どんなに体調が悪くても、必死に頑張って食べきるよう努めるのだ。
その掟を自ら破ってしまった悔しい思い出がある。
本当は書きたくないのだが、このあいだ早稲田の定食屋「キッチン オトボケ」で超大盛りライスと格闘していて、ふとそのときの苦い体験が記憶の底から甦ってきた。
あれはいつのことだったか、短期バイトに精を出していた頃だから、東京へ出てきてまだ日も浅い1975年か76年頃だったと思う。バイト先は茗荷谷の東京教育大学。ただし、もうその時点でこの大学は実質的に廃校しており、構内は閑散としていた。その図書館で移転先の筑波へ送るため、蔵書を書棚から降ろし、段ボール箱に詰めるというのが作業内容である。
本屋で働いたことのある方はすぐおわかりいただけようが、これは実に単調きわまる重労働。脚立に昇ったり降りたり、中腰で梱包したり箱詰めしたりの繰り返しで、じきに腰が痺れるように痛くなる。おまけに埃まみれになっての辛い作業だ。初日にもう、うんざりした。はたしてこれが十日間続けられるだろうか。
ようやく昼になる。肉体労働だから腹ぺこだ。大学構内でのバイトなので普通なら迷わず学食へ直行、となるのだが、廃校後ではそうはいかない。
仕方なく地下鉄の駅までとぼとぼ歩く。今はどうだか知らないが、当時の茗荷谷ときたら実に閑散とさびれていて、食堂なぞ見あたらない。きょろきょろしていたら、脇の路地をちょっと入ったあたりに、汚い暖簾の出た小さな中華料理屋があった。なんともみすぼらしい店だが、覗いてみると先客が何人かいる。探し歩く時間が惜しいので、仕方ない、ここに決めた。
周囲を見渡すと、誰もが黙々とソース焼きソバを食べている。店のメニューにはこれしかないのか。おそらくそうだったのだろう。全員が体格のよい学生風、いかにも体育会系、あるいは応援団かもしれない。今考えると、どうやら拓殖大の連中だったと推察されるが、皆が皆、一心不乱にソース焼きソバを貪り喰らっていた。しかも揃いも揃って大盛りでだ。
小生もまた、迷うことなく大盛りを注文した。
待つこと数十秒、無愛想な店主から供された皿を見て、思わず息を呑んだ。
そして即座に悟った。まわりの連中が食べていたのは、普通盛りの焼きソバだったのである!
(後日につづく)