(承前)
ウィレム・ファン・オッテルローは1973年までデン・ハークのレジデンティ管弦楽団の首席指揮者の地位に留まった。しかしながら、彼の心は疾うにオランダを離れ、広く世界各地に活路を見出そうとしていた。
1962年と65年にオーストラリアのABC放送に招かれて客演して以来、豪州との絆は強まりつつあった。1967年、ABC傘下のメルボルン交響楽団 Melbourne Symphony Orchestra の首席指揮者に任じられ、二シーズンその薫陶に努めたほか、1966年からは読売日本交響楽団の招きでたびたび日本を訪れ、ベートーヴェンを中心に幅広いレパートリーを披露した。このほか、ストコフスキーの慫慂により、その手兵たるアメリカ交響楽団 American Symphony Orchestra もしばしば指揮している。
ウィレム・ファン・オッテルローの最後の任地はシドニーである。これは奇しくもニコライ・マリコ(マルコ)と全く同一である。思えばマリコもまた、実力のわりに不遇な指揮者だった(マリコについては
→ここ)。
オッテルローは60年代からシドニー交響楽団 Sydney Symphony Orchestra にたびたび客演を重ねた末、1973年その首席指揮者に就任、翌74年には同楽団のヨーロッパ公演を実現させ、オーストラリアの現代音楽を含むプログラムを各地で演奏した。
久しぶりにレコード録音にも意欲を示し、ベルリオーズの「幻想交響曲」とシュトラウスの「英雄の生涯」がライヴ収録(1974)されたほか、モーツァルトの「グラン・パルティータ」、ドビュッシー「神聖な舞曲と世俗の舞曲」、ラヴェル「序奏とアレグロ」、マルタン「小協奏交響曲」などがLPで出た。先日もちょっと触れたが、なかでも「幻想」(彼にとって三度目の録音)は忘れがたい名演である。もっとも豪州のみのローカルな発売とあって、これらの演奏は欧米でも日本でもほとんど黙殺された。
ウィレム・ファン・オッテルローの最期は悲劇的である。語るのが辛い。
1978年7月25日、シドニー歌劇場のコンサート・ホールでABCのためにストラヴィンスキーの「春の祭典」の録音セッションを仕上げた彼は、シーズン最後の演奏会を振るためにメルボルンへ飛んだ。そして7月27日、メルボルンの路上で自動車事故の犠牲となったのである。享年70。
ご子息のクリスさんの述懐によれば、その直前、最後に電話で話したマエストロはどこか元気がなく、「メルボルンへ行くのは、どうも気が進まないんだ」と漏らしていたという。
なんとも口惜しいのは、この非業の死によって、オッテルローとシドニー交響楽団が進めていたベートーヴェンの「交響曲全集」の録音が未完に終わったことである。「第一」、そして「第三」から「第六」までの五曲のみで途絶したこの録音は、死後の1982年、"Five Beethoven Symphonies" という無念さを滲ませたタイトルで、英国の Chandos レーベルからひっそり発売された。
(明日につづく)